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『猫を捨てる 父親について語るとき』を読むべき理由

読むのに1時間、考察するのに一生。

『猫を捨てる 父親について語るとき』(村上春樹 著)を読み終わった感想はこの一言に尽きる。
淡々と父親の生涯を描き、その生涯から村上春樹さんの思いが書かれるという至極わかりやすい構成で、読破するのにそこまで時間は要さないだろう。しかし、自身の問題として落とし込んだときに、考察することが無限回廊のように多く存在する。少なくとも自分にとっては。

今でもうまく整理できていないが、現時点で考えていることをまとめられたらと思う。そして、多くの人にこの本を手に取っていただきたい。
(今ふと思ったが、電子書籍派の人は「手に取る」ことができないなと思った。「買っていただきたい」にしたほうがいいのか…?。杞憂。)

一個人の回想録であり、「歴史」でもある。

このエッセイは著者である村上春樹さんが幼い頃、飼っていた猫を父親と川辺に捨てに行くという思い出から始まる。
自転車で父と一緒に夙川へ向かい、猫を捨てたにも関わらず、家に帰ると捨てたはずの猫が玄関口にいた。

そのときの父の呆然とした顔をまだよく覚えている。でもその呆然とした顔は、やがて感心した表情に変わり、そして最後にはいくらかほっとしたような顔になった。そして結局それからもその猫を飼い続けることになった。

なぜ、このような表情を父は浮かべたのだろうか。

また、もう一つの父の思い出として、毎朝小さな菩薩に向かってお経を唱えていたことも思い出される。

いずれも単なる思い出にしかすぎないのだが、その表情・行動をしていた理由を父の生涯を辿ることで紐解いていく。どこの生まれで、戦時中はどの部隊に所属していて、教壇にたっていた頃はどんな人物だったのか。まるで辞書を一枚一枚めくるかのように丁寧に語られていく。

言ってしまえば、一個人の父親の回想録だ。

しかし、村上春樹さんが自分の父親について紐解いているうちに自己の存在について考え始める。そして読者である自分もいつの間にか、その思考プロセスに引き込まれてしまうのだ。

「歴史」から考える、自分の存在とは。

いずれにせよその父の回想は、軍刀で人の首がはねられる残忍な光景は、言うまでもなく幼い僕の心に強烈に焼きつけられることになった。ひとつの情景として、更に言うならひとつの疑似体験として。言い換えれば、父の心に長いあいだ重くのしかかってきたものを──現代の用語を借りればトラウマを──息子である僕が部分的に継承したということになるだろう。人の心の繫がりというのはそういうものだし、また歴史というのもそういうものなのだ。その本質は<引き継ぎ>という行為、あるいは儀式の中にある。その内容がどのように不快な、目を背けたるようなことであれ、人はそれを自らの一部として引き受けなくてはならない。もしそうでなければ、歴史というものの意味がどこにあるだろう?

個人的に一番印象深い一節。
様々な意見があるだろうし自分の解釈が間違っているかもしれないが、この部分で一番多くのことを考えさせられた。

自分の存在というのはあらゆるものの「歴史」の集大成だと思う。
今まで出会ってきた人々はそれぞれの歴史があり、その歴史に触れることで自分の一部となる。今まで読んできた本はその著者の歴史があり、また自分の一部となる。
では、自分自身から生まれた(外部的要素に全く影響されていない)人格とは自分の中で何割ぐらいあるのだろうという疑問が出てくる。
自分の存在が様々な「歴史」の集大成出会った場合、「自分自身」という要素は限りなくゼロに等しいのではないだろうか。
自分自身の存在を唯一無二の存在として考えがちだが、単なる偶然とも言える「歴史」の積み重ねではないだろうか。
この本の中でも書かれている通り、「自分の存在が徐々に透明になってくる」という感覚はこのことなのだろうか。考えれば考えるほど煩雑になってくる。

そんなこんなで考えることが尽きない。そして、また最初からこの本を読み始め少しずつ自分の血肉とする。「自分は何者だろう」という問いに戻る。


僕は父と一緒に何かをしたという思い出があまりない。
むしろ一般家庭から見るとあまり仲が良くない部類に入るだろう。幼い頃に家族でキャンプに行ったぐらいだが、特別な会話をしたというわけではない。

しかし、大学生の頃、1〜2回ほど父と飲んだことがある。
話題は父について。どんな学生時代だったか、どんな社会人生活だったか。お酒のおかげか、普段全く会話をしない僕らが様々なことを語った。
父の言葉から紡ぎ出された「歴史」はごく一部でしかないだろう。

父は大学2年生の頃、自転車にハマっていたそうだ。
何も考えずに遠いところまで行くことが好きだったらしく、四国一周なども遂げた。車を持ってからこそあまり乗らなくなったが、それまでは自転車を毎日のようにいじっていたらしい。
その話を聞いた瞬間、自分も彼の息子なんだなと不思議な繋がりを感じた。
自分も大学2年生ぐらいから自転車にハマっていたからだ。もしかしたら父親と過ごした、なんの変哲もない時間の積み重ねが、偶然とも言える共通点を産み出し、自分の人格を形成しているかもしれないと思った。ちなみに過去の存在のように書いているが、父はまだ存命である。

村上春樹さんの原点がわかる(らしい)

調べてみると、この本は村上春樹ファン(通称:ハルキスト)にとっては今までの著作のテーマや背景が紐解かれる作品らしく、どの思い出がどの著作に影響しているかが明らかにされるとのこと。
猫を捨てた思い出は『ねじまき鳥クロニクル』に、父親の歴史は『騎士団長殺し』に影響している。しかも、『海辺のカフカ』や『1Q84』から、父親とのなんらかの確執があったことはハルキストの中で噂されており、実際のところ父親とどうゆう関係だったのかがこの本によりわかるというわけだ。

自分は東野圭吾ファンだったので、恥ずかしながら村上春樹さんの著作を読んだことがない。
僕が高校生の頃だったか、周りの友達は挙って『1Q84』を読んでいた。流行に流されるのに何かしらの嫌悪感を感じていた僕は、東野圭吾さんの『手紙』で主人公・直貴と兄・剛志の兄弟愛に涙していた。

もしかしたらこの感想文を書くこと自体、ハルキストに批判されるかもしれない。言語道断なのだ。
ごめんなさい、ハルキストのみなさん。
ごめんなさい、東野圭吾さんを始め、東野圭吾ファンのみなさん。
これからハルキストに追いつくべく、村上春樹さんの著作を読んでいこうと思う。まずは「1Q84」からだ。(ちょうど「1984」(ジョージ・オーウェル 著)を読んでいたところなので…)

ハルキストでなくても是非読んでほしい

ハルキストでない自分から言うのもおかしいが、ハルキストの方々にはぜひ読んでもらいたい一冊。そして、そうでない方も読んでほしい。

この本を通して、多くの方が自分の親との関係を考え始めるだろう。
文量からして、1〜2時間程度で読破できる。
しかし、考えさせられることは尽きることがない。哲学のように。
この本をきっかけに自分を構成する「歴史」について紐解いてみてはいかがだろうか。そして村上春樹さんを始め、多くの読者のように自分を考え直してみても良いと思う。

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