【読書】主体性を持って生きるということ『テヘランのすてきな女/金井真紀著』
図書館の新刊コーナーにひときわ目を引く、素敵なイラストに思わず惹かれて、私はこの本を手に取った。
昨今、世界のニュースでも度々取り上げられている国、イラン。
その首都で著者が出会った女性たちの個々人の人生に着目した話がいくつも収録されているのだが、そのどれもが、日本ではちょっと想像できないくらいに新しい世界線で、かつ、著者がユーモアたっぷりに、イラスト付きで分かりやすく女性たちを描いてくれているので、とても読みやすい一冊だった。
イスラムの国、イラン
なんとなく、イスラム教が根強い国、みたいなイメージはあったのだけれど、本を読み進めると、とても想像以上で驚いたので、それについてまず綴っておこうと思う。
著者がイランを訪れるきっかけになったのは、2022年の秋、ある事件をきっかけに、イラン国内で発生した反スカーフデモがきっかけだった。
ある事件とは、22歳の女性が、スカーフの被り方が不適切だという理由で警察に逮捕され、数日後に死亡した事件である。警察に暴行を受けたのではないかという説が濃厚で、デモは瞬く間に広がりを見せ、多数の死者と大量の逮捕者を出したという。
そもそも、女性のスカーフの着用が義務付けられたのは1979年、イラン革命以降。イスラム原理主義(西欧的な近代化をムスリムの堕落とし、ムハンマドの教えに立ち返ってイスラム世界を再生しようとする考え方)を掲げた政府は、イスラムの教えに基づいて、さまざまな宗教的規律を国民に義務として課した。
その独裁体制に反発として起こったのが、この反スカーフデモ。その後、2023年には、そのデモのガス抜きとして取り締まりが緩和されたというが、それにしても、この現代において、いくら宗教の教えに基づくとはいえ、法律として宗教的な規律を人々に義務付けるって違和感でしかなかった。イランでは、信仰の度合いについては、政府が決定権を握っているらしい。本当に違和感しかない。
義務付けられているのはなにもスカーフ着用だけではない。
イスラム教の教えに基づいて、本を出版する際や海外映画などにも厳しく検閲がかけられ、不適切な表現やシーンがあれば容赦なくカットされる。
言論や表現の自由も制限されている。
さらに驚いたのは、性的マイノリティを持つ人たちへの制限。
同性愛は死刑に該当するため、外見的な性および戸籍上の性を変更せざるを得ない。そのせいで、性別適合手術がさかんなのだという。
人を愛する自由もないなんて、、、。
加えて、私が感じたような違和感を国民に抱かれないように、イラン政府は、インターネットの海外ニュースへのアクセスや、SNSなどに厳しい制限をかけることによって情報まで統制してしまっているそうだ。
制限された国の中で
そんな独裁政府下で生きているイランの女性たち。
どう考えても理不尽な制限だらけの生活を強いられているはずなのに
そんなものに全く屈さずに強くたくましく生きる姿が本の中で印象的だった。
サッカーがやりたくて、男子のふりをしていたサッカー女子の代表監督の幼少期の話だったり
明確な基準のない検閲に何度も駄目だしをされてもなお、物語を書き続ける作家さんの話だったり
理不尽なイランの法に苦しむ女性たちを全力でバックアップするパワフル女性弁護士の話だったり
どの女性を取り上げても、誰一人として、「イランで女性として生きることの大変さ」を嘆き悲しんであきらめてたりしていない。
自分の現状を理解した上で、何ができるのかを工夫して、考え、戦いながら生きている。
ここからは、この本を読み進める中で感じた個人的な主観になってしまうのだが、どの女性たちも、制限のある中で「主体性」を持って生きているという姿がとても新鮮に見えてしまった。
「主体性を持って生きる」ってあたりまえのように見えて、実はとても難しいことなのではないかと私は本書を読みながら思ってしまった。
ものすごく抽象的なので、もう少し具体的に言い換えると「自らの選択に責任を持って生きる」といったところだろうか。
彼女たちは現在、「スカーフの着用の義務」という日本ではありえない政府の縛り付けの下で生きているが、それ一つとっても、彼女たちの反応は多種多様だ。
もちろん、それを守って忠実に、髪や肌の露出全くせずにスカーフを被っている女性もいれば、自分自身のファッションに合わせて、髪の毛を露出した状態でスカーフを被っている女性、そもそもスカーフを被らずにキャップだけ被っている女性などなど
現状、義務付けられているとはいえ、取り締まりが連行ではなく「注意喚起」にとどまっている最中、女性たちそれぞれのスカーフに対するスタンスが興味深い。私的には、警察から注意喚起の指導を受けても、それを普通に無視している姿なんてもう、主体性が強すぎてもはや面白い。
面白がってはいけないことなのだろうけど、日本ではきっとこういう状況はありえない。少数の例は除けど、日本の法律や規律ってそれなりに「まとも」で筋が通っていることがほとんどだからこそ、それに基づいて私たちを取り締まる警察に歯向かったり、警察の対応を理不尽だと思うことって、日常的にほぼないと言っていいと思う(もちろん例外は除くけど)。最低限のマナーや法律さえ守れば、もはや制限されているという感覚なく、さまざまな自由を私たちは享受した上で生きている。
「イラン政府が言っていることってまともじゃない。」
彼女たちは生きる上で、その事実を前提に、自分なりの解を出さなければならない。これだけ世界中が世俗化して、信仰の自由や個人の自由が尊重されている中で、イラン政府が行っていることって明らかにおかしい。違和感しかないけれど、私は今イランで生きている。それではその中で私はどうやって生きるのか。
本書で登場するイランの女性たちはみな、その問いに、他の誰でもない自分なりの答えを持って生きている。もちろん、「スカーフの着用義務」というものすごく特異で理不尽な制限があるからこそではあると思うが、彼女たちはそれに対して、主体的な選択を迫られ、自らの意志で主体的に、他の誰でもない自分なりの答えを出す。
そして、その主体的な選択が前提にあるからこそなのか、どの女性たちがその他で選ぶ人生の選択肢もどこまでも主体的であるように感じた。
主体性を見失いがちな国、日本
このイランの女性たちの主体的な選択を目の前にしたとき、いかに自分自身が主体性を持って生きていないのかを私自身、思い知らされた。
私個人の意見だけれど、日本で「自分の人生を主体的に生きる」って結構難しいとそう思う。
なぜなら、主体性を持たなくても普通に生きていけるからだ。
純日本人で生まれた私は、生まれた時点で国家からかけられた自分自身への制限に悩まされたことってない。
イランの女性たちのように、自分が着る服を制限されたことなんてない。
服だけじゃない。自分の食べるものも、自分が観るテレビや映画も、読む本も自由だった。
小中高と教育だって普通に受けられたし、その後の選択肢だっていくらでもあったし、選べた。
行きたい国にだって、自由に行けたし、自分の職業だって自由に選べた。
もちろん、比較的裕福な家庭だったので、各個人の経済状況によっては、上記のようにいかないケースもあるのかもしれないけれど、こと国家という視点で見たときに、日本で生きていく上で、国家からかけられた制限ってない。
「日本に生まれただけでかちげー」
外国籍の友人や、世界を旅した友人たちからよく聞く言葉だったが、別にそんなこと思わないくらい、意識しないくらいあたりまえに、多大なる自由を享受して私は日本で生きてきた。
だからこそだろう。別に日本の国家を誰が運営しようとあまり興味を抱かずに生きてきた。政府を動かすのが誰であろうと、別に今、自由に生きれているんだからいいじゃん。ちなみに選挙なんてほぼ行ってない。とんだお花畑野郎だと思う。
ここ最近やっと、円安とか税金問題とか年金問題とか勃発している戦争問題とかそういうものが身近になってきてやっと、国家を運営している政府に対して意識は最低限芽生えてきたものの、政治に対する知識はほぼ皆無と言っていい。
それでも別に生きていける。それが日本だと、そう思う。
もちろん傍からみたら、実は自分はやばいやつの一人なのかもしれないけれど、「選挙に行かない若者たち」みたいなワードが度々報道されているのを目にすると、意外と私みたいな人って結構いるのではないかと思ったりもする。
日本はそれなりに国家として「まとも」で、だから別に国家に対して自らの生き方に疑問を抱き、問いを立て、それに基づいて主体的に自分の生き方を選択する必要はない。ただ与えられた自由を享受して生きていればいい。
そんなことが成り立ってしまう日本において、私自身含め、主体的に、自らの選択に責任を持って生きることは難しい。言い換えれば、自らの選択をいつだって誰かにゆだねて、誰かのせいにして生きていくことができるのだ。
自らが置かれている状況について
親のせい
政府のせい
会社のせい
誰のせいにだってできる。自分で、自らの選択に責任を持たなくても自由に生きてこれたし、これからも生きていけると思うから。
彼女たちは、スカーフの着用義務という国家から課せられたルールを破っているとして、もし仮にまた規制が厳しくなれば、連行され、最悪死に至るという危険性がある。
でもそれはほかでもない「自分が選んだ選択」であり、自分自身に責任がある。それを自覚した上で生きている。
本書を読みながら、この前提の違いとそれに基づく彼女たちの生き様に気づいたとき、普通に鳥肌が立ってしまった。上記のような視点で考えてみると、改めてイランの女性たちってかっこいい!ってそう思う。
私も主体的に、自らの選択にきちんと責任を持って、生きてみたい。
まだまだ道のりは遠いのかもしれないけれど、自分が日常的に行っている選択の1つ1つを意識して、少しずつ、主体性を身に着けていこう。そう考えさせられた一冊だった。
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