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古都の裏には、深い森 〜森の奈良・春日山原始林の魅力〜

人口36万の街に年間1700万人以上が訪れる、日本屈指の観光都市、奈良。旅行で訪れたことがある方も多いでしょう。僕の小学校の修学旅行も、行き先は奈良でした。

奈良にやってきた観光客の多くは、東大寺•春日大社などの歴史的建造物や、鹿との戯れを目的にしています。実際、観光名所が集まる奈良公園界隈はいつ行っても凄まじい混雑です。

奈良は日本の歴史のオープニングを飾った街なので、これは当然といえば当然。
しかし、樹木ファンとしては、歴史だけでなく「森の奈良」の魅力も是非みなさんに知っていただきたい!

実は奈良の街のすぐそばに、世界的に貴重な原生的森林が広がっているのです……。

春日山原始林

東大寺や春日大社がある奈良公園の東側に、「春日山(かすがやま)」と呼ばれる標高200〜400mほどの山塊があります。

この山は、仁明天皇が西暦841年に禁伐・禁猟令を出して以来、1000年以上にわたって厳重に保護されてきました。麓の春日大社の神域として、春日山の森は人々から長い間神聖視されてきたのです。

長い年月にわたる保護の結果、春日山には深い深い原生的照葉樹林が保存されました。この森こそ、「森の奈良」のメインディッシュ、「春日山原始林」です。


↑若草山から見た春日山。照葉樹林の濃い緑がのっぺりと広がっている。


春日山原始林は、森林美学的にも、学術的にも、価値が高い森林です。世界に誇れるレベルの、貴重な観光資源だと僕は思っています。


↑春日山原始林の林内。


春日山原始林はなぜ貴重なのか

春日山原始林は、二重の意味で貴重な森だと言えます。

まず、「大都市のすぐそばに、千年以上にわたって保護されてきた森がある」という成り立ちの貴重さ。
そして、「照葉樹林」という森そのものの貴重さ。

①成り立ちの貴重さ
奈良市は、繁華街もあり、大学もあり、タワマンもありの結構な都会。しかも、近年発展したというわけではありません。710年に平城京が建設されて以来、1300年以上にわたって奈良は大都市であり続けました。歴史の長さは、ニューヨークの3倍以上なのです。
1300年も人々が活発に経済活動を行なっていれば、その周辺地域の自然は破壊されたり、改変されたりするのが普通です。ところが春日山の場合、繁華街から徒歩30分のところに、広大な原生的森林が広がっている。

こんな例は、世界中を見渡してもほとんどありません。


↑春日山原始林と奈良市街の位置関係。繁華街が広がる近鉄奈良駅近辺から、わずか1.8km先に、広大な原生的照葉樹林が広がる。

②森林そのものの貴重さ
そもそも、春日山に広がる「原生的な照葉樹林」という森林タイプ自体、現在では非常に希少な存在なのです。

↑春日山の照葉樹林②。豊かな植生が残る、理想的な状態の森。

遡ること2000年前、日本の森に斧が入るずっと前のこと。照葉樹林は西日本の大部分を覆っていたと言われています。

当時、人間が照葉樹林に足を踏み入れることは殆どありませんでした。

というのも、照葉樹林は、生身の人間が生存するにはかなり厳しい環境だから。照葉樹林には、食用価値の高い果実をつけてくれる樹種があまり生えていません。そのため、狩猟採集で生きてきた縄文時代の人々は、クリ、クルミ、トチ、山菜類など、食料資源が豊富な落葉広葉樹林帯に住んでいました。当時の日本の総人口(約30万人)のうち、90パーセント以上は照葉樹林帯から遠く離れたブナ林帯に居住していた、というデータもあります。

食料事情の厳しさをもって人間の居住を拒んだ照葉樹林は、原生的な状態を保ったまま、長きにわたって日本列島の南半分を覆いつくしていたのです。

↑「鬱蒼と」という表現は、こんな風景のためにあるんだと思う。

しかし稲作が伝来し、日本列島で農耕が始まると、この状況が一変します。

農耕に適しているのは、照葉樹林が分布するような温暖な地域。たちまち人間の居住地の中心は西日本に移り、以後2000年間にわたって、照葉樹林は農地・都市に侵食され続けることになります。

現在の照葉樹林の面積は、縄文時代と比較すると2%にも満たないと言われています。西日本の低山には、コナラやアカマツの森が延々と広がっていますが、あれは照葉樹林が一掃された後に成立した「二次林」。原生的な深みを湛えた照葉樹林は、いまや全くと言って良いほど残っていないのです。


…………①②両方の希少性を兼ね備えた春日山原始林は、1955年に国指定特別天然記念物に指定されました。

そして、あまり知られていませんが、春日山原始林は「古都奈良の文化財」のひとつとして、世界文化遺産にも登録されているのです。「世界遺産だからスゴイ」という考え方はあまり好きではありませんが、春日山原始林も、奈良という古都の価値を下支えする重要な観光資源である、ということは確かです。

↑若草山から見た奈良市街

「大仏やお寺だけが世界遺産じゃないんだぞ〜。その背後を固める原始林にも、行ってみて〜‼︎」と、奈良公園で鹿にセンベイをあげている観光客に布教して回りたい… 。もちろん、そんなウザイことはしませんけどね(笑)

いざ、林内へ

春日山原始林の凄さは、「ただ単に貴重である」ということだけではありません。森林美学的な価値も、かなり高いのです。

実際に林内に入ってみると、照葉樹林独特の美しさに圧倒されます。

では、いざ遊歩道へ……。


↑春日山を一周する、春日山遊歩道

春日山の遊歩道は、小学生たちが自転車を乗り回しているような、ごくごく普通の住宅街から始まります。普通、原生的な森というのは深山をかき分けたような奥地に広がっているので、一番最初に春日山を訪ねた時は、「本当にこんなところに原生林があるのか?」と疑ってしまいました。

しかし、遊歩道を歩き始めると、その心配は無用だったとわかりました。

まず初めに、見事なイチイガシの大木がこんにちは。(↑)

イチイガシは、人による伐採が行われていない森でないと生育することができません。春日山のような原生的照葉樹林は、彼らにとっての最後のユートピアなのです。暴れ回るように地を這う、やんちゃな板根に胸キュン。


↑モミの大木。広葉樹が多いイメージの春日山だが、意外とモミも大勢いらっしゃる。
スラッとした幹がエモい……。


春日山の森を歩いていると、嫌でも森の「暗さ」を意識することになります。

照葉樹たちが、分厚い葉っぱを旺盛に茂らせ、日光の明るみをカットしているからです。枝葉が作った堅牢なフタに閉ざされ、昼間でも闇が充満する林内は、外界とは完全に隔別された別世界なのです。有史以前の日本の山には、こんな風景が延々と広がっていたのでしょう。


↑ツブラジイが高木層を埋め尽くしている。


春日山原始林を歩くことは、2000年前の日本にタイムスリップするのと同じこと。春日山では、人間がまだ生態系の覇権を握っていなかった時代のまま、時の流れが止まっているのです。ですから、一度森に入ってしまったら、そこはもう人間の領域ではありません。太古の昔の世界に迷い込む、という映画ドラえもんチックな体験が、春日山ではできちゃうのです。


↑遊歩道脇にある、ヤマザクラの大木。


春日山の森の樹々の緑色は、とにかく濃厚。ほとんど黒と言って差し支えありません。

ここまで重厚な緑色は、日常生活の中ではそうそうお目にかかれないと思います。見慣れない色が、視界いっぱいに広がるものだから、「自分はやっぱり未知の世界に迷い込んでしまったんだなあ」という実感が湧いてきます。

春日山を歩くと、いい意味で想定外の景色ばかりが展開されて、頭が混乱してくるのです……。

↑日差しはが当たるのは森の上部まで。地表付近には、薄暗がりが溜まったまま。
これも、濃厚な緑ができあがる要因だと思う。


↑ツブラジイの板根。熱帯雨林に来た気分になる。


照る葉

春日山の森の暗さばかりを伝えられると、「暗い森をずーっと歩いていたら、気が滅入るじゃないか。もっと気持ちの良い森歩きが楽しみたいよ…」って思う方もいらっしゃるかもしれません。落葉広葉樹林帯に住む人が照葉樹林に入ると、暗さのあまり重度のホームシックにかかる事もあるんだとか。確かに、照葉樹林にブナ林のような穏やかなムードはないよなあ…。

↑ブナ林(上)と照葉樹林(下、神奈川県真鶴で撮影)。ここまで明るさが違えば、ホームシックになるのも無理はない。


でも、照葉樹林は暗闇を押し付けるばかりの森ではありません。屈強なイチイガシが頑なに日差しを遮り、林内の陰気臭さを倍増させているのを見ると、ついつい「ここの森、不気味だなあ」と思ってしまいますが、それは大きな誤解です。ああ見えて、照葉樹たちはサービス精神旺盛。訪問者へのおもてなしも、きちんとやってくれるのです。

じゃあ、どんなおもてなしをしてくれるのか?

それは、夕暮れの森に西日が当たったときに分かります。

上の写真は、夕方17時半の春日山の森。夕暮れ時特有の強烈な西日が、強固な森の天井を突き破って、林内に差し込んでいます。厚ぼったい照葉樹の葉っぱも、さすがに西日まではカットすることができなかったか……。

西日が森に潜り込めば、林内の雰囲気は一変します。真っ黒な林冠が、ステンドグラスに早変わり。樹の枝葉の隅々まで、眩しいぐらいに輝く姿は、本当に幻想的。「照葉樹」という名前の意味が、よく分かります。

↑西日をスポットライトがわりに、目立とうとするシロダモの若木。こいつ、調子に乗りすぎじゃね〜?ってちょっと腹立つくらいに、美しい。

午前中、暗闇を地表に落とし込み、僕をビビらせていた照葉樹たちが、実はこんなにも魅惑的な光景を用意してくれていたなんて。樹木たちからのサプライズプレゼント。ずるいよお前たち…。ギャップ萌えでさらに惚れ込んでしまうじゃないか。

森歩きの序盤である午前中は、つっけんどんに暗い森ばかり見せてきて、終盤の夕暮れに素晴らしい光のショーが開演って、なんか良い。森を離れる名残惜しさで胸がいっぱいです。

↑春日山原始林内の沢。岩の上のコケにも、光の粉が降り注ぐ。

ずーっと明るい落葉広葉樹林では、照る葉のステンドグラスのインパクトはここまで強くないでしょう(もちろん、夕暮れ時の落葉広葉樹林もめっちゃ素敵ですよ)。

通常時の照葉樹林がめちゃくちゃ暗いからこそ、西日のステンドグラスが出来上がったときの感動が大きくなるのです。

闇が強くなれば、そのぶん光も強くなる。光の輝きに感動できるのは、その背後に暗闇があるから。

「暗い森、不気味だなあ」と思った方は、夕暮れ時まで待ってみてください。西日のライトを浴び、艶めいた照葉樹たちが、あなたの心を解きほぐしてくれると思いますよ……。

いかがでしたか?世界遺産の照葉樹林の美しさを、感じていただけたでしょうか。

今度奈良に行く機会があれば、ぜひ照葉樹たちに会いに行ってやってください。
最初は暗くて戸惑うかもしれないけど、あいつらめっちゃ楽しいヤツらですよ。

<春日山原始林 ミニガイド>

所在地 奈良県奈良市
遊歩道の長さ 全長10km弱。ゆっくり見ると丸一日かかる。
遊歩道の整備度  難所・急勾配・危険な箇所はなし。道幅が広く、林道のようなコース。運動靴で可
公共交通機関でのアクセス   若草山側の入り口から遊歩道に入るのがおすすめ。近鉄奈良駅から2km、徒歩30分。ぐるっとバス大宮通ルートも可。
車でのアクセス   周辺道路の混雑が激しいので、あまりおすすめはしません。駐車場がないので、近くのコインパーキングにとめることになる。一番安いコインパーキングは、奈良市高畑町の「春日大社最寄駐車場」。高畑町側の遊歩道入り口まで徒歩5分の位置
注意事項  ・初詣の時期は、春日大社近辺がめっちゃ混みます。さすがに原生
       林内の遊歩道は空いていますが…
      ・雨上がりは、ヒルが多いので注意



↑春日山原始林の最奥部にある、鶯(うぐいす)の滝。遊歩道入り口から2時間〜3時間ぐらい。森の奥にひっそりと、といった雰囲気がめちゃくちゃ好き。
↑冬の春日山。常緑樹林なので、緑の濃さは変わらない。


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