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万葉時代に国を司った陰陽道。

と銘打ちましたが、素人の生兵法💦なのです。短歌に関わり、それなりの年月(30年程)を経ておりますので、軽く古事記と日本書紀をさらっています。その中での乏しい知識を、自己研鑽的に。

まずはWikipediaの記事をご覧くださいませ。

陰陽寮(おんようりょう、おんようのつかさ)。律令制下の日本において政府の重要機関であり、名称を変えて明治まで存続していました。
Wikipediaから一部を引用いたします。

陰陽頭(おんようのかみ)を始めとする幹部職と、陰陽道に基づく呪術を行う方技(技術系官僚)としての各博士及び陰陽師、その他庶務職が置かれた。陰陽師として著名な安倍晴明は陰陽頭には昇らなかったが、その次男吉昌が昇格している。

博士には陰陽師を養成する陰陽博士、天文観測に基づく占星術を行使・教授する天文博士の編纂・作成を教授する暦博士、漏刻(水時計)を管理して時報を司る漏刻博士が置かれ、陰陽、天文、暦3博士の下では学生(がくしょう)得業生(とくごうしょう)が学ぶ。宣明暦が、862年2月3日(貞観4年1月1日)から1685年2月3日(貞享元年12月30日)の823年間使用された。

因みに天文博士は、天体を観測して異常があると判断された場合には天文奏天文密奏を行う例で、安倍晴明も任命されている。

飛鳥時代(7世紀後半)に天武天皇により設置され、明治2年(1869年)に時の陰陽頭、土御門晴雄薨じたのを機として翌年廃止された。なお、天平宝字2年(758年)から8年までは、藤原仲麻呂による官号改易(仲麻呂失脚後、復旧)により、「太史局」と称されていた。

陰陽寮 Wikipedia より引用

天武帝、大海人皇子がこの制度を取り入れた理由は、彼が一皇子であったころに陰陽道を学んでいたことに端を発します。その記述は日本書紀巻28に記載があるのですが、原文は何せ漢字オンリー💦(平仮名成立以前、万葉仮名の時代なので)。ですので、ここはコミックに登場していただきましょう。持統天皇物語『天上の虹』里中満智子さん作。まずは壬申の乱を描いた10巻より。

こちら、最後のコマは鸕野讚良うののさらら皇女こと持統帝です。


これを補足する意味で、若き日の大海人、陰陽道を学ぶ姿を。2巻より。

讚良さららと新婚?時代の大海人。兄・中大兄との確執に悩み、
星に道を尋ねる、というシーンです。

Wikipediaにも「博士」という表記がありますが(この「博士」は今のDr.、Professorとは意味合いが違うのですが)当時の人たちにとり五行思想、陰陽道はまじないいでも迷信でもなく、大陸からもたらされた先進的思想だったのです。五行思想(五行説)について解説したサイトをリンクします👇


天武天皇のWikipediaは以下よりご覧ください👇


2023/11/29、20:41追記。国立歴史民俗博物館で「陰陽師とは何者か─うらない、まじない、こよみをつくる─」という展示が12/10まで開催されているそうです。


等々。あまり参考にはならなかったですよねσ(^_^;)くじらさん
この記事を綴る切欠は、くじらさんの記事に私がコメントを致したことがはじまりでして。「歌詠みにとって陰陽道はいわば『科学』に等しい」と申し上げ、くじらさんが「noteに書いてみてください」とお返事してくださったのでした。
私たちが今『科学』と呼んでいる事柄が成立する遥か以前、人々は己の道を星々に尋ねたのです。今の私たちがホロスコープを求めるように。

33ヘルツのくじら様、noteはこちらから👇


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春永睦月
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