2020/8/28-生理は個性に感じた違和感-
すごーく端的に言うと、何より、「言葉のセンスが惜しかった。」というのが個人的な感想と違和感の要因。その違和感を具体的に考えていきたいと思う。
誰かが生理で休んだとき、 「お大事に」って口では言ったけれど、
心のどこかでは「生理で休むなんて…」と
思ってしまうことがあったり。
“生理は一人ひとり違う”
頭ではわかっていても、女性同士だからこそ
ついつい自分にあてはめて考えてしまうのが、
リアルだったりする。
けれど、その違いを 受け入れ合うことができれば。
違いを“個性”ととらえることができれば。
今まで見えなかったことに気がつけたり、
そっとフォローしあえたり、
私たちはもっと気持ちよく 助け合えるはずだから。
ロリエは、“kosei-ful”プロジェクトを はじめます。
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今もSNSを検索すると、見てみたよ、という方が個々にご自身の意見を発しているのが拝見できる。何がよくないの?と思われている方もいるが、大多数が、これはよくなかったという評価や違和感をもっているように思う。
「信じられない、もう買わない。」と不買行動を起こそうとしている方もいる。
話題になっているキーワードは「個性」。辞書を引くとこう書いてある。
こ せい〔1〕【個性】
ある個人を特徴づけている性質・性格。その人固有の特性。パーソナリティ。「強烈なーをもった作品」「ーを発揮する」
引用:スーパー大辞林3.0
もう少し細かく調べる。
せいしつ【性質】
(1)生来の気質。(類)性格
(2)事物の特徴。(類)特性
とくせい【特性】
独特の(-すぐれた)性質
パーソナリティ【personality】
(1)個性、人柄
(2)ディスクジョッキー
さらに調べる。
とくちょう【特徴】
他と比べて特に目立つ点。(類)特色(派)(〜)的
「性質」から「特徴」の引用:デイリーコンサイス国語辞典
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生理の当事者である私からしても、やはり、「生理は何か」という問いに対して、上記の中で、適切に表せる言葉は見当たらない。
小学校高学年から生理と付き合っているが、生理という現象に対して「生理は個性があるよね」「個人の特性だよね」と思ったことはないし、その文脈で話をしたこともない。
身体的にもだるくて、情緒も不安定になり、起こりうる最悪な事態を考えながら服を選び、寝る時間さえもひやひやしながら生活しなければならず、睡魔のコントロールができなくなるほど眠くなる、吐き気に何度も襲われ、起き上がることさえできないほど痛みがあるという人もいる。
それなのに、病気ではないと言われ、人に話すと穢れとして扱われる。
その状況下における感想と会話は、「本当にめんどくさいよね」「痛いのつらいね、大丈夫?」「死ぬほど眠くなるの、めっちゃわかる〜」「無理しないでちょっと休んだら?」「シーツ、最悪だよね。おつかれさま。」などである。
世の中一般で「個性」という言葉は、正(+)の意味をもつ言葉として理解が広がっている。しかし、当事者からすれば、生理に対して、正の要素はほとんどない。
現実との圧倒的乖離がある中で、「個性という言葉でお互いに話をすれば、わかり合える」というのは、論理の飛躍に感じる。
わかり合うには現実を知ることが必要で、それがどんなに負(ー)の要素に思えることや、きれいではないもの、苦痛を伴うことでも、偏見やレッテルを貼らずに、事実を事実として知っていこうという動きが、世の中のいろんな分野で起こり始めている最近の傾向に期待もあった。
そんな中で、「個性」で話を展開するのは、生理に対して、「負の要素があるもの」「きれいではないもの」という前提を覆したいという思いがあるように見える。
理解をしてほしいと声をあげたのは、当事者だったかもしれない。でも、負の要素を無くしたい、とか、個性的なものとして捉えてほしいとは、言っていなかったと思う。
「生理ってこういうものなんでしょ?みんながこうなんでしょ?」という偏見とも取れる考え方や、「穢れとして扱われてきたから触れてはいけない話題である、恥ずかしいものである」というレッテルをなくしてほしいという声だったはずだ。
もちろん、相対的貧困の課題と一緒で、個別の事情を知られたくないという人も多いというのは想像できる。でも、マクロの統計や医学的な観点からでも、間違った理解や偏見をなくすことはできるはず。
そして、正しい理解のもとで事実を知り考える中で、当事者でない自分にはどうしてもわからないこと、想像できないこと、感じることのできない感覚や気持ちがある、ということがわかってくる。
その段階に立ってやっと、「個体差」がある、という理解ができるのではないだろうか。他者の身体的な出来事に対して、他者が介入できるのはここまで。
ここまで理解できた人はきっと、「それは個性だよね。」という捉え方をする思考にはならないはず。
その個体差による状況や出来事において、配慮をしたり、フォローをしたりすることができる社会になることが望ましいのではないだろうか。
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こんな風に話すと、まわりくどい、わかりづらい、と感じる人もいると思う。でも、そのわかりづらさを面倒臭がっていたら、いつまでも理解し合えない。
わかりやすくした端的な言葉で、簡単な説明で、理解できたと一方的に思っているのは、知らないことよりも、無知で失礼なことだと思う。
だから、めんどくさいと思われても、声をあげていきたいし、理解してもらえるように言葉を尽くしたいし、当事者である私も、事実を知っていくことを怠らずに、少しずつでも前に進んでいける社会を目指したい。