ようやく言葉にしようかなと思うこと #すすめもも
さっき、自分ごとってなに、というテーマでお話しをしてました。
自分ごとって何だろうね?
で、最後のブレイクアウトレームで、自分ごとにするには
「ちょっと自分のなかに余裕をもつこと、だね」と言ってくれる人がいました。
最近まで、自分のなかに余裕がなかったこと、
だから自分ごと化できなかったことを思い出しました。
少し、個人的な話になります。
半年ほど前、同居していた新卒1年の姉はコロナ禍での就職をミスったのか、精神的に参ってしまいました。やめてフリーターになりました。
地元で森の中で国際交流パーリーしていた父は、生きがいがちょん切られて心をうしない続けています。仕事にはなかなか行けません。
私も、楽しく続けていた活動がほぼ中断。
でも自分のことよりも、家族の後ろでへばりついていた私にとって、家族が変わっていったのは。
とくに、ワンルームで半径3メートルの姉の影響は大きかった。まさか彼女が。
ちょうどがんばりかけていた将来のことも、何も考えられなくなって手につかなくなった。目の前でたおれとんやもん。
ある日は何とか支えちゃらんにゃと思う。
でも、ある日は、逃げたいと思う。
アンタのために振り回されたくない。
全く知らないどっかのだれかと繋がっていたい。
と思うようになりました。
それがあまり余ってでっかくなって一周して、これまでのルーツが「福祉」の中になかったのに、そうだわ!みたいに運命まがいに思って、勝手に変換されました。
今回のお話会を主催している福祉にかかわる・りたい人が集う場は、ほんとはそんな動機から入りました。
自分中心の利己的な理由で、狡猾にも、利他的に。
高齢者住宅では、団地の生活を自分たちでつくって、楽しんで、生きている人たち、高齢化率80パーくらいでも、自分たちで分け合って循環してお互いさまって、ちいさな経済ができてた。
適当にみんなのご飯つくるお姉さんとして認識して、適当に接してくれる居場所支援の子どもたち。「うまいっす!!」「えーピーマンいらんー」「これ、なんか味うすくね?」「冷たいんやけどー」
みんな人生サーフィンしているし、生きてんだなって。
おこがましかったんか、私。
自分ごと化できていなかったのに、無理くり自分ごとにしようとする傲慢さがある私。
無理くりだれかをお世話しようとしている私。
自分がいちばん助かりたいと思っていた。
「余裕があって初めて、自分ごとになるんやね。」
確かにそうだなって思った。
自分ごと!!!!と焦っっていたとき、それは自分ごとではなくて。
あーあれすごい思い違いをしちょったなーって思うことはいくらでも思い浮かぶ。
でもね。自分ごとにしなきゃと焦ることは自分ごとじゃなくても、やってみることには価値あるね。そういう意味では、悪くないのかも?
焦ってやってみて、純粋に自分ごとにできることがあった。
皆んなひとりでごはん食べる問題(こしょく)
経済的な貧困はすぐには解決できなくても、「つながりの貧困」は自分ごとにできる。
貧困・学習支援の現場にたってごはんをつくる、が尊いことだと思える。
うまいごはんをみんなで食べること。
天地がひっくりかえっても良いことだと思えるし、
こしょくは、何があっても変えたいと思う。
いやそんなに覇気があるわけじゃないけど、
でもこしょくの場面を見つけたら、いっしょにご飯食べたいって思う。
めっちゃシンプルに思う。
自分ごとやね。
文責・もも