命を感じる(10歳〜
東京都でも郊外にあった私の家の周辺は、私が小学生だったころは、子供が外遊ぶには十分すぎるぐらいの、環境が整っていたため、学校が終わったら家にランドセルをおいたら、日が暮れるまでしっかりと外で遊ぶ毎日。
小学生だった6年間は、子供らしい遊びを存分に満喫していた。
当時は、空き地や雑木林のような土地も多く、自然に溢れていた。野良猫や野良犬といった、動物も当たり前にいた時代だった。
動物が小さい頃から好きだった私は、同じく動物好きお友達と野良猫や野良犬を見つけては、家からお菓子・パン・牛乳などを持ち出して、餌をやっては手なづけて、自分たちの基地につれていきこっそり餌をやり続けたり。野良猫・野良犬を見つけては食いっぱぐれないようにと、探しては餌をやることに夢中な時期があった。
動物を可愛がることで意気投合したゆきちゃんとは、本当によく2人で野良猫、野良犬を可愛がり、見つけると2人でルンルンで可愛がっていた。そんな私たちの夢は、当時2人とも獣医さんというほどだった。
私たちの家には、お互い自宅に飼っている犬もいた。2人で遊んだ日は一度帰って、また愛犬をつれて一緒に散歩をするというのにハマった時期があり、お互いの犬をつれて散歩にいくとそれはそれは楽しかった。
ゆきちゃんの愛犬のシェットランドの確か・・ラッキーと私の愛犬雑種のかけふ。この二匹も、喧嘩することなく一緒に散歩が楽しめて散歩も終盤になると、大きな広場にいって私たちだけになったのをみはからってそこで、二匹の綱を手から離して自由に遊ばせていた。お利口さんの二匹だったので、遠くにいってしまうこともなく、犬たちも私たちも一緒に自由に遊ぶことができた時間が、本当に楽しかった。
そんな、ある日。
いつものように、二匹を離して散歩を満喫しているといつもとは違って犬達が広場から出ていってしまうというアクシデントが起きた。
広場から出ると、すぐに道路につながってしまいそこにはもちろん車が走っている。犬の名前を必死に呼びながら、私たちも追いかける。胸騒ぎがとまらない、突然ドキドキして一気に緊張が走る。
私はとにかく、かけふを、ゆきちゃんはラッキーを追いかけ手綱を手に取らなければと必死に声をかけ、追いかける。必死にかけふを捕まえた手は汗でビショビショだった。その時、最悪な事態が起きる。
ラッキーが車にひかれ、血だらけで横たわっている・・・ 初めて直面した、命の危機。あっ・・・と、息を飲んで私は声も出せず体に力も入らず、動くことができなかった。ゆきちゃんは、そんな不甲斐ないわたしとは真逆に、ラッキーをすぐさま抱き抱え血だらけになりながらも必死に家に走って帰った。
その姿が、あまりにも勇しく同い年のいつも仲良しのゆきちゃんが、すごく大人に見えて、何もできなかった私はただただ放心状態で、後からその姿を必死に追いかけることしかできなかった。声もでなければ、体も思うように動かない。
その後、ラッキーはすぐに病院に連れて行かれたけれど、結局助からずそのまま亡くなってしまったのだ。その後、私たちがどんな会話をしたかは思い出せない。
あまりにも、命の重みを感じた、衝撃的な出来事だったのと、犬を離して遊んでいたことでゆきちゃんの愛犬を失わせてわせてしまったことに、子供ながらに罪悪感や後悔があり、でもその気持ちさえもうまく伝えられなかったような記憶がある。
こどものころに、直面した。最愛の人(犬)の死。今は、42歳に死に対しての考え方も当時の私からすると、だいぶ変わりましたが、あの時の感情は、今も忘れません。
大切な人(もの)を失う気持ち。それを知ると、ふだんなんとも感じなくなっている当たり前なことが、当たり前でないということ。全てが奇跡だということ。だとしたら、もっと毎日を大切に生きようと思えること。
あの時の記憶は、これからも薄れることはないです。なぜなら、悲しい思い出だけではなく、私の人生にとって大切な思い出になったから。