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ぼーっとする自由すら許せないのか?

6、7年ほど前、某所で「発達障害」と言われる中学生、高校生と一緒に「ことばのワークショップ」をやったときに、愕然としたことがあり、彼らは全くと言っていいほど、ぼーっとする時間を持とうとしないのだ。こちらが話そうとする合間にも(ちなみに私は吃音者で、スパッと話し出せないことがあるのですが)、たとえばある人は必死で話し続けているし、ある人は手元のゲームに向けて指を動かし続けている。あのさ? とぼくは話しかける。ん? と向こうは目をぼくに向ける。ぼくは、というと、すぐには何か話だそうとはしない。不思議そうな目を一瞬向けて、彼(ら)はまた自分の動きに戻る。ああ、ぼーっとする習慣というか技術を持たないんだな、とぼくはその時に思った。

「ぼーっとするワークショップ」をやりたいと考え始めたのはその時だ。しかし、考えれば考えるほど、いまの、この時代に、「ぼーっとする」のは難しい。なかなか、そのワークショップを実行に移すのは難しそうだ。

と、これまでは思っていたが、我が子が小学校に行き始めて、そこで様々な問題が起こり、その問題を追いかけているうちに、もしかしたら我が子の問題というわけではないのかもしれないと思うに至り、ああ、なるほど、ぼーっとできないのは大人であり、ぼーっとして退屈したり、飽きたりするのを大人が(子供に対して)許せなくなっているんだということに、ようやく気づいた。

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