ルーティーンの効用
元旦に「なりゆきの新年」と題して書いたのは、その日の思いつきで、毎日書こうと決めて書き始めたのではなかった。
ただ、「道草の家・ことのは山房」のリニューアル・サイトで"日めくりカレンダー"を始めよう!(元旦から)という話になって実際に始めた後で、"毎日やる"というのは好きなんだな(自分は)とあらためて気づいた。
"日めくりカレンダー"は、いまのところ全て妻(ことのはさん)が書いて、写真も彼女が撮っている。いや、写真が先にあり、文章は写真に添えるつもりで書かれているかもしれない。
だいたい毎日、(アップする前日の)日中にぼくのメール・アドレスに写真と文章が届く。ぼくは翌日、起きてすぐにそれをウェブサイトにアップする。そんな"共同作業"を毎日やっている。
これは、一種のルーティーン・ワークだ。日課。
朝、起きて、ご飯をつくって食べたり、掃除・洗濯をするような感覚で、撮りためておいた写真を「明日の"日めくりカレンダー"」用に選び文章を書くというのもそうだし、毎朝、ウェブサイトにアップしているぼくの作業はもっと単純作業的で、ルーティーン・ワークと呼ぶのにふさわしい。
ルーティーン・ワークといえば、1/5に書いた「自分を救う方法」でも触れた朝のページ(モーニング・ページ)もそうで、毎朝、そのノートを開き、ペンを手にとり思いつくままに書いてその日のページをたんたんと埋める。
これを、たとえば3日に1回やるとなると、少し違ってくるはずだ。週1回となると、また違う。
毎日やることに比べると、何か考えたり、ためらったりする機会が増えそうだ、とぼくは思う。
毎日というのは、次から次へとやってくるものなので、考えてる暇がない。
"考えてない"という状態をつくりだせたら、いいなぁと思う。
ぼくはいつも何か考えている人なので(たぶんね、自分でそう感じてる)、全く何も考えずに何かをやるのは無理なような気がするが、少しでも"考えずにやってる"状態をつくりだせたら、考えてやるのではできないことができるだろう。
"考えてない"状態で思い出すのは、人の話を聞くのに、本当に身が入っている時のこと。
本当に話を聞いている時というのは、自分という存在は"耳"になっていて、ほとんど考えていない、考えてる暇がなくなる。そういう時の話は、録音をしていなくても、だいたい自分の"耳"が記録していて、しばらくは"耳"がその時の音を再生してぼくに聞かせてくれる。
じつは、"書く"という仕事、作業、遊び、何でもいいが、その"書く"ときの、自分にとって理想的な状態は、書き手は"耳"となって、よく聴こえていて、聴こえてくること(ことば)をただ書き写せばいいよ、という状態なのだ。
だから毎日、ルーティーンのようにして書くのは、やってもいいな。ま、朝のページはもう何年も続けているので、とっくにやっているのだけれど、それは自分の中だけのこと、他の人に向けたものでは全くない(実際に誰にも見せない、自分ですらなかなか読み返さない)ので、読んでもらうための文章も、半分は自分のトレーニングのつもりで、また書いてみてもいいなと思って、しばらくはこの場(note)を使って毎日書くことにします(すでに24日間、毎日書いている)。
とはいえ、毎日書くのは苦ではないのだ。3日に1回書くほうが大変。腰が重くなるから(スポーツ選手は毎日走るだろうからそれと同じだ)。週1回だと、もっと"仕事"のようになってしまうだろうし…
さて、ルーティーン・ワークというと、誰にでも出来ると思われているところがあるかもしれないが、誰にでも出来ると言うはやすし、誰にでもはできない。ただし、やり続けている人からすれば、こんなのたいしたことじゃないということにもなろう。だから、ルーティーン・ワークを「誰にでもできる」と言えるのは、やっている人だけなのだ。
(つづく)
その、「道草の家・ことのは山房の日めくりカレンダー」、1日めくって、今日は1月24日、「道草の家・ことのは山房」のトップ・ページに毎日置いてあります。ぜひご覧ください。
このカレンダー、"日めくり"なので、当然その日のものだけ見てもらう仕掛けになっている。"日めくりカレンダー"ふうの写真エッセイになっていて、べつにその日に読まなければいけないものではないが、後でまとめて冊子にでもして(手に入りやすい価格で)読んでもらってもいいかという話をしている。気軽につくって、気軽に読んでほしいので、あまりちゃんとした印刷・製本はできないかもしれないが、ZINE(ジン)というのはもともとカリフォルニアあたりのサーファーが、コピー機とホッチキスなんかを使ってつくった手作りの媒体らしくて、そんなZINEのようなものでいいから今年は気軽につくってみたいと計画しています。