優れた耳をもちたい
数日前に、推敲をどうやっているかは、他人に話せないなぁ、なんて書いた。今日はそのつづきだ。
文字というのは、よく考えてみたら、記号だ。それだけでは文章にならない。読まれることによって、はじめて文章になるのであって、浮かび上がるのであって、読まれている瞬間にしか存在しないという感じもある。
ことばは、もともと「音」で存在していた、ということを考えると、音にして読む(朗読、音読する)ことによって、またその音を感じること、想像することによってはじめてことばは立ち上がるのだろう。
書かれたものが読まれている瞬間にしか存在しない、というのは、楽譜にかかれた音符が、鳴らされること、歌われることによってはじめて音楽になる、というようなことに近い。──とまぁ想像してみてもいい。
ここ(noteの「道草のススメ2019」)に書き始めたばかりの頃、今年の1月に、「"文字のない言語"の誘惑」という話を書いた。
世界中には6000〜7000の言語があるという。
その6000〜7000ある言語のうち、文字をもつ言語は、ほんの1部(100足らず?)らしい。
ほとんどの言語は文字をもたない! つまり"音"だけである。
なんて、書いていた。
さて、推敲の話に戻ると、数日前には、その人の読書量がモノを言う世界(作業)なのではないか、と書いた。
いや、どうだろう。推敲するときには、読むわけだ(読まずに推敲はできない)。たとえばその時に、ロジックや字面の正確さだけを追っていたのでは、推敲はどうなるだろう?
"推敲"には終わりがない、とぼくは思う。
とぼくは数日前に書いていた。それはなぜかというと、推敲では音のチェックも大きな部分を占めるからではないか。
音に、正解も不正解もない。ただ、鳴らされた音を感じて、音に導かれてゆくしかない。
そこで、何が大事か? 耳がよくないといけない。耳は、鍛えられるだろう(聴覚に障害のある人でも、その人の中にある"音"を感じることはできるのではないか…)。
そして、耳のいい書き手は、優れた書き手だとぼくは思っている。
(つづく)
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