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「ワークショップ」のイメージ
前回のさいごの方で触れた美術アトリエ(総合デザイン研究所=吉祥寺美術学院)で、昨年の2月から「オトナのための文章教室」という、ワークショップふうの教室を、だいたい毎週・金曜の夜にひらいた。
同じ場所で、「ワークショップ」と称する数時間のイベントを、その前の数年間、たまに開催していた。
「好きな色」「好きな場所」などをテーマに文章を書いてきて読み・語り合う作文ワークショップを皮切りに、参加者同士で"インタビュー”し合って書き起こす「インタビュー・ゲーム」、"夢"に様々なアプローチで迫り未来の自分に手紙を書く「夢を描いて」など。
それはそれで面白い試みだった。
しかしそういった企画を、数時間というイベントの枠に封じ込めることに物足りなさを感じてもいた。
ワークショップ(workshop)というのは「工房」のことで、「参加型●●」といった意味で使われ始めたのはアメリカかな(違ったかもしれません)。それが日本に入ってきて使われだしてからもうけっこうな時間がたち、使い古されてきた。
「ワークショップとは何か?」については、いろんな考え方があるだろう。
ぼくの中で、こういうのは嫌だ、というイメージなら、ハッキリしている。
何か伝えたいことがあって、「ワークショップ」を使うことで、そこに向かって人の意識や考えを誘導するようなことは嫌だ。
参加者ひとりひとりが主となるような場でなければ、「ワークショップ」とは呼びたくない。
こういうことをしたい、というイメージは、ハッキリとはしていない。ただ、曖昧な(感覚的な)イメージならある。
「ワークショップ」では、何かを動かしてみたい。
手を動かす、足を動かす、からだ全体を動かす、口を動かす、モノを動かす、etc.
できればそれらを組み合わせて、偏りがちな感覚を解きほぐすような工夫を(共に、自分も)してみたい。
あるいは、普段何気なく動かしているものを、その時間、その場ではなるだけ動かさないことにして、意識のうえでは忘れられがちな別の何かに注力してみたい。
ゴールが、示されているわけではない。
あらかじめゴールが示されていない道を、共に歩くためには、じっくりと取り組めるだけの時間と場所も必要だろう。
さて、何がしたい? と自分に問うた時に、
いま、"書く"ことを深めてゆきたい。"書く"が深まれば、"読む"も深まるだろう。
というふうなことが浮かんだ。
2018年2月に「だいたい毎週・金曜の夜」の場を、ひらいた。
「ワークショップ」という名称には、少し嫌気がさしていたところで、迷いつつも、「教室」にした。
参加者は少ない方がよいだろうが、一定のメンバーでなくてもよいことにした。来たい時に来て、読んだり(読んでもらったり)、語り合って何か感じたり、考えたりできればよい。
10人近く集まった日もあるにはあったが、多くの場合、2〜3人とか、1人とか。誰も来ない日というのもたまにあった。
人がたくさん集まること、盛り上がることには、しかしぼくは慎重だったし、そうならなくてよいと思っていた。
何かすごく気の利いたことを「先生」が言って、気持ちよくなって帰ってもらうといったことは、なるだけないように心がけた。
モヤモヤ、モジョモジョ?──ことばにならない違和感を抱えることを推奨したようなところすらありました。
(つづく)
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