場の"生"を感じる時
さぁ、今日も書こう。
何か書きたいことがあるから書く、ということもあるにはあるが、ほとんどの場合は自分は何が書きたいのかわからずに書いている。
おそらく、少しだけ書く人には、書きたいことを書いていられる余裕があるだろうが、いや、でも本当に「書きたいことだけ」を書くということが、現実的に可能だろうか?(何か書けば、それにくっついてくる予期せぬものがいろいろあるはずだからだ)
逸脱につぐ逸脱。
ということなのだが、それでいて、全体を見渡してみると、意外とまとまりがあったりする。ひとりの人が書いたものであればね、なおさらそうだ。だから、無理してまとめようとしなくていい。──これは『アフリカ』の編集者がよく思っていることだ。
その『アフリカ』の14年目、29回目の"セッション"を、ゆるやかに始めている。
数日前には、楽しい"リハビリ"の話を書いたが、ここのところぼくは、付き合いのある人に声をかけるのすらしんどい状態だったので(どんどん後回しにしてしまうのだ)、ゆっくり、ゆっくりと再開している。
しかし、いつだって、ぼくには「焦るなよ」という、ある人の声が聞こえている。そして、のんびりやるのにも覚悟と技術が要るような気がしている。覚悟だけでも技術だけでもダメだ。
その覚悟と技術は、他人から教わるものじゃなくて、自分自身から教わるものかもしれない。参考にできる話は、何でも参考にすればいいのだけれど、最終的には自分に戻ってくる。
今朝、起きて、道草の家の2階に上がり、自分のパソコンやら何やらがあるところに座って、見ると、目の前にタイサンボクの蕾が膨らんでいた。
朝の仕事をしたり、朝のページを書いたりしていて、ふと見ると、1時間くらいたっていたか、ふわぁっと花を開かせているのに気づいた。
こういうのは、嬉しい瞬間である。
この家に来て、8回目の初夏だが、寄り添うように立っているタイサンボクとはいつも、話をしているようなつもりでこちらはいる。
タイサンボクは、何月頃に花を咲かせないといけない、とは思っていない。つねに何かを感じていて、花を咲かせるタイミングが来たら咲かせるわけだ。
何人かと話していて、『アフリカ』が1年以上の間を空けるのは初だ、と言うと、そんな気はしない、いつでも出せる時には出す(やる時にはやる?)のが『アフリカ』だから、むしろ「らしい」というか… なんて言われる。
場が力を失っていない、生きている、ということは、かかわっていればわかることである。
(つづく)
「道草の家・ことのは山房」のトップ・ページに置いてある"日めくりカレンダー"、1日めくって、6月4日。今日は、額紫陽花の話。
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