"残したい"という願いについて
なぜつくるの? なぜ記録するの? なぜそれを他人に渡したいの? というと、きっといまの人の多くは、それを「たくさんの人に見て(読んで、聞いて、etc.)ほしいから、となるんだろう。そういう話は、何度もしたことがある。「たくさん」が意味するところは、それぞれ違うだろうが…
だとしたら、つくる時には、他人がそれをどう見るか(読むか、聞くか、etc.)に関心が向かっているということになりますね?
ぼくも、相変わらずそういう(自他の)思惑には、引っ張り回されていると言っていい。と思ってる。少なくともそういうことが全くない状態で働いてはいない。
しかしぼくはよくハッと目が覚めたようになり、ちがうんだよなぁ、と考える。
たとえばぼくはずっと亡くなった知人の書いた本をつくろうとしているんだけど、それをどんな本にしたいとか、たくさんの人に読んでほしいとか考えるのは本人じゃない(もう亡くなって何年にもなる)。本人が生きていて、同様のことを考えているんだったら、あ、そうなの? がんばってね。と放っておくだろう。(まぁしばらく本はできないだろうが、生きて元気でいてくれたらその方がよし、だ。)
が、彼はもう死者となって久しい。夢でいいから出て来てもらって話したいが、なぜか、そう思っている人ほど出て来てくれない(焦ってないから、いつか出て来て)。
ぼくは彼の書き残したものを、もう少し先まで残してみたい、と願う。だから本をつくりたい。たくさんの人に読んでほしいからではないのだ。そういったことは、残すことができた後、もしかしたらぼくも死んだ後の話だ。
だいたい、複製可能なものの場合、ここにだけあるより、あっちにもこっちにもある方が、"残る"可能性は上がる。
"残す"とはどういうことなのだろうか? と考えもする。
ぼくは"表現"ということをしようと思い始めた頃から、"残す"ということを考えている人だった。
残すために、どうしたいか?
自分に都合のいいような"色"をつけて残したいなどとは思わない。
できるだけ、そのまま残しておきたい、と思う。そのためにはどうすればいいか、と考える。
そのまま、などということは、ありえないのかもしれない。でも、できるだけ"そのまま"に近い状態で残したいと思う。
でもいまはこんな話、ほとんどの人には通用しないんだなぁ、とため息をついている。
(つづく)
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