"何もしない日"をつくる
朝、起きて、「朝のページ」を書いてしまったら、とにかく、今日は何もせずにぼーっとしていたいと思った。日中は妻子も出かけて家にはいない。急ぎの仕事はない。あっても、自分より他がダラダラしている仕事ばかりである。遠慮するな。仕事をサボって、ぼーっとするにはもってこいの日である。しかし今日は金曜で、明日から世間は週末だ(例によってぼくは休みじゃないが、でも今日が休みといえば休みである)。今日中にやっておきたいこと(手続きというか)があり、午前中のうちに関内まで散歩に出かけた。
帰ってくる時に近所のおじさん(おじいちゃん)と立ち話、先日の台風のこと、「屋根瓦が飛ばされて家の中で傘をさして耐えた」「ブルーシートを被せてあるが、修理にはなかなか来てもらえそうにない」といった話を聞かせてもらい、近隣の被害についても聞く。
千葉や鎌倉や伊豆大島の被害については、SNS、次いでニュースで入って来て知っているが、よく考えたら近所のことを知らない。
あそこの石垣が崩れていたとか、屋根が飛んだといった被害は、この辺でもけっこうあるらしい(派手に雨漏りするのが得意な道草の家が何事もなく無事だったのが不思議だ)。
あと、山手警察のアンテナ(?)が折れた? という話も聞いたが、よくわからなかった。
帰宅して1人分のうどんをつくって食べて、短編小説を1つ読み(最近なんか妙にこういうことがしたかった)、あとはグタッとしてしまい、布団を出して昼寝したら、もう夕方だ。
ぼくはかつて、20代の後半の5年ほどだが、会社勤めの人として、本やら放送やらイベントやらを「つくらなければならない」からつくる仕事をしていた。
その頃、ぼくは「どうしてこんなに、つくらなければならないんだろう?」と考えていた。
食料となるものを、どんどんつくる、というのは、よくわかる。生きるためだ。
しかし、どうしてこんなにすごい数の本を、こんなに大量につくらなければならないんだろうか?
どうやら、読みたい人に届けるため、ではないようである。では、そんなことに加担する意味は何か? 自分が生きるためか? では、その生きるとは何か? そんなことを考えたことがぼくにはあり、そんなことも(そんなことばっかり考えているわけにはゆかないが)あまり考えずに歳をとってしまったら危ないような気がしている。
ぼーっとすると、いろいろ思い出して、からだの奥の、心の奥の方で、ぽっと燃える炎のようなものを感じることができる。
(つづく)
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「道草の家・ことのは山房」のトップ・ページに置いてある"日めくりカレンダー"は、1日めくって、9月13日。今日は、「親友みたいな存在」の話。
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