"薄さ"への憧れ
昨日に引き続いて、『アフリカ』という雑誌の話。
はじめて『アフリカ』をつくった時に、考えたことのひとつは、「薄いものにしよう」ということだった。
『アフリカ』の1冊目は2006年8月号だが、A5(いまでも変わってない)40ページだった。
ほとんど誰にも知らせずにつくったので、なおさらそう感じられたのかもしれないが、たいへん儚い、いまにも消え入りそうな雑誌になるというふうに自分で思った。
しかし、ぼくにはその"ささやかさ"が救いでもあった。
人を救うのに、派手さは要らない。だいたいぼくは当初、自分を救うために始めたのだ。売りもしなかった(にもかかわらず、近所の立ち飲み屋で見ず知らずの人が買ってくれたのは驚きだった)。
薄くしたいと思ったのには、理由があった。
ぼくが最初に雑誌づくりにかかわったのは大学の事務局にいた頃だったが、大学の出している雑誌はいつも電話帳のような分厚さだったので、手に持って読もうと思うと疲れる。机に広げて、抱え込むようにして読まなければならない。
なぜ分厚くなるかというと、入れたいものを1冊に詰め込むからだ。
「分ければいいのに」とぼくは考えていたが、そこでは自分は編集補佐のような役割にすぎなかったので、言えなかったというか言わなかった。
『アフリカ』をやる前に、『寄港』という同人雑誌を数冊、つくったが、あれも最初は分厚かった。
雑誌づくりが一種の"祭り"(イベント?)になるのがよくないのだ、とその頃考えた。"祭り"だから、あれもこれも、あの人もこの人も、となる。
日々の営みだったら、あれもこれも、と言っている余裕はない。次はこれ、その次はこれ、というふうに、もっとたんたんとしたものになればいいのだ。その方が落ち着いてつくれるし。
そういえば、大手出版社が毎月(あるいは季節ごとに)出している文芸雑誌も、みんなそれなりに分厚い。使われている紙により重さは軽減されていても、だ。ぼくは正直、あれを長く手元に置いて可愛がろうという気にならない。
しかし古本屋通いをしていて気づいたが、昔の雑誌はみんな薄い(年齢を重ねるにつれて脂肪がついて太い人になるように、雑誌も太くなってきている?)
あの薄い冊子というかパンフレット風の雑誌に、ちょっと憧れに近いものを感じたりして。
ぼくは簡素なものを愛しているようなところがある。手軽なもの、普段づかいのもの、というか。
というわけで、薄くしたい『アフリカ』を最初につくった時にはもう本当に欲がなくて、そうなるとなぜか思いつくのは冗談ばっかり、どうせ誰も見ないんだと思うと気が楽だ、やりたい放題やってやれ、というわけで、ふふふ、ひひひ、と言いながらつくった。
薄くて背表紙が狭いので、背表紙の文字も要らないね、と守安くん(表紙デザイナー)と話したような記憶がある。
でも、そろそろ、入れてもいいかもしれない。背表紙の文字。いまつくっている再始動の『アフリカ』は、これまでより少しだけ厚い(少しだけネ)。再起をはかるなら、これまで通りにするのではなく、これまでやっていなかったことを少し入れる、というのもいい。
(つづく)
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