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自己完結するということについて
昨晩、遅くに、というのか、今朝、未明に、というのか、眠っていたら、タイサンボクの下で猫たちの決闘が始まり、その後は、よく眠れなかった。野良猫たちの世界にも、何らかの闘争はあるようだ。急に暖かくなったから、かな。人間の世界は、たぶん猫たちの世界よりも遥かに複雑な争い事で満ちているよ。
投げやりな気持ちには、よくなる。しかし、いつも元気でやる気満々な方が怖い。投げやりの対処法にかんしては詳しい。投げやったままでもとりあえずつくってみよう──と思う。たいした意味もなく投げやりになることも多いのかもしれない。というより、ほとんどの場合はたいした意味がないのかもしれない。眠い時とか(今日はその可能性が大)。それを、何かにつなげて、「〜だから投げやりになってる」と思ってしまう。
いろんな調子はずーっと良くないので、すごく悪くならなければいいか? という感じ。過度な期待をしない。もっと言うと、他人に期待をしない。自分の中で完結してしまっている。じつはそれが一番健康な状態ではないか。──そんなふうに、自己完結するということについては、ぼくが生きてきた時代には、あまり良いことだと思われていなかったかもしれない。が、たとえば(半世紀以上遡ってしまうが)東京の『近代文学』と神戸の『VIKING』が対立した姿勢を示したように、何か大きな文学的な理想を(宿題を?)追い求めるのか、ただダラダラとでも生き続けようとするのか、そのどちらがよいのか、ということはぼくの中ではハッキリ決着していないということになっている。
評価は自分たちの中で常に確立されており、世間的に(業界的に)どうかということはどうでもよく、あとはダラダラ生き続ける方がよいと思っていることろが、ぼくの中にはあるということだ。
もっと言うと、その方が長く生き続けるという例もあるのである。