『東京公園』を歩く 第2回 解けぬ謎
春馬くんとの出会いは…👇
何度観ても解けない謎がある。それでも『東京公園』が好きだ。
謎があっても好きになったのだから、その謎が解明されなくたってかまわない。でも一度湧き上がってしまったものにはまっすぐ向き合いたい。
だから懸命に深掘りをする。
公園をいっぱい巡って準備運動も済んだので、さあ、それでは本格的に始めますよ~。
準備運動がまだの方は…👇👇
ヒロはなぜ幽霊なのか。ゾンビ映画は必要か。美咲の涙のわけは。
大きな謎はまずこの3つ。けれども解はなかなか見つからない。
ヒントを求めて読んだ小説『東京公園』だったけれど、そこに解はなかった。
そもそも小説ではヒロは生きているし、だから富永がゾンビ映画を観ることはないし、美咲は泣かなかった。
もっとあっけらかんとした話だった。
ヒロはなぜ幽霊なのか
ヒロの死の理由は明かされない。メイキング映像で榮倉奈々が「自殺」と言ったのが唯一だ。
第一しばらくの間、彼が幽霊だとは気がつかなかった。
肉まんとケーキを食べたあと、「で、いるの?」と聞いた富永には部屋の隅のヒロが見えていない、という場面でやっと彼が幽霊で光司だけに見えているとわかる。
それまでは、なんでさっきまでいなかった押入れ下の寝床にいるのか、なんで離れた部屋に急に現われるのかわけがわからなかった。
富永のカレだった、3人でよく遊んだ、幽霊なのにどこにも出かけられない、泣きたくても泣けない…。
ヒロについての情報はこれくらい。なぜこんな状況になっているのかヒロ自身にもわからないらしい。
幽霊といったら、ふつう恨みや心残りがあって出てくるものだけど、ヒロにはそういったものがまったく感じられない。
だれかを憎んでいるわけではなさそうだし、ひとり残した彼女が心配でたまらないというふうでもない。どうしても伝えたいなにかがあるようでもないし、富永と光司をくっつけたいと思っているのかもわからない。
なぜだかそのまま居ついているが、きっかけがあれば消えてけじめをつけたいと思っている。
小説ではヒロは生きている。3人で仲良く食べては映画を観ている。
富永は自分の絵と圭司(光司)の写真をヒロのデザインで本にしたいと考えている。3人でなにかをしたかった、日々の証みたいなものを残したかった——そういう話。
(あれ? これって渡辺の言ってることと同じじゃん!)
その設定を壊してまでヒロを幽霊にする意味は?
いる理由がはっきりしないのならいなくてもいいのでは?
でもいるんだからなにか意味があるのか?
考えは同じところをぐるぐる回って、どうにも先に進まない。
ではヒロがいなかったらどうだろう。
富永は光司ひとりの家には遊びに来ないのではないだろうか。
ヒロがいるから安心して来る、同居しやすいと荷物を抱えてやって来る。
それをきっかけにヒロは消えてしまったが、それでも同居をやめようとはしない。ヒロはもういないけれど光司と住むことにしたのだろう。
ということは、ヒロは富永と光司をつなぐ役割をしたのか。
2人の気持ちに前から気がついていたのかもしれない。死の理由もそれなのか。そして幽霊となって2人をくっつけた。
「なるほど。ありえるかもな」
いろいろ理屈をこねてみる。しかし、いるものはいる、ただそれだけでいいのではないかとも思う。理屈抜きで。
幽霊もゾンビもどこにでもいるものだ。
光司はヒロと普通に付き合う。生きていたときと同じように。
「見えて話もできるなら生きてるときと変わんないじゃん」って富永も言っているように。
生きてたって幽霊だって変わらない。人はだれでも必ず死ぬ。けど、いると思えばいつだっている。一緒に生きている。忘れなければいつでもその人はそばにいる。今は……特にそう思う。
ゾンビ映画は必要か
光司にはヒロが見えるのに富永には見えない。
「あんたがいつゾンビになって出てきてもいいように何百回も観てもう慣れた」と言う富永。それがゾンビ映画を観る理由だというのだが、わかるようでわからないその理屈。
メイキング映像で青山監督は次のように語る。
「自分もゾンビ映画を撮りたいっていうひとつの欲望の表われだったと同時に、富永と光司が抱えているひとつの問題、この2人の間に流れている関係としてどうしても越えられない川みたいなもの、そしてね、ゾンビという概念を持ち込むっていう必要があった。つまりね、公園という場所にプライベートな視線を持ち込むのと同時に、こう、あらゆる場所に徘徊するゾンビ。でもそれがそのプライベートな関係というもののひとつのくびき、足かせになっているっていう、そのことが物語のもうひとつの核。この物語にひとつの新しさみたいなものがあったとしたら、その越えられない線を越えられないまま生きていこうとする人たちっていうふうに見える、そういう物語の在り方、そこをやっていきたいと思った部分ていうのがすごく強かったわけです。それでゾンビ映画が出てくるんですけどね」
うーむ、これもよくわからない…。
監督は自分がゾンビ映画を撮りたいがためにヒロを幽霊にしたのかもしれない。光司は疑問を持たずに幽霊だってだれだって受け入れる。それで幽霊にしちゃったとか。
自分が監督になってみた。
——小説『東京公園』を映画にしよう。
公園巡りをする人妻の行動が面白い。若者3人の生活に変化をつけたいので1人を幽霊にしよう。幽霊ではあるが生活はそのまま。人妻の行動と合わせて、ちょっとスリリングな感じでいこう。
富永と光司の間に不思議な関係が生まれる。富永はヒロに会えるようにとゾンビ映画を観る。しめしめ、これでゾンビ映画を撮る理由ができたぞ。
これだってひとつの解かもしれない。
美咲の涙のわけは
父親は「ま、うまいもん食ってよく寝ればダイジョブだろう」なんて軽く言ってるし、重病と受け取れるシーンは見当たらなかったから、筆島を前に美咲がなぜあれほど泣くのか疑問だった。
でも入院中の母が光司をよろしくなんて言い、話の途中で急に目をつぶってしまうものだから美咲はなにかを感じたのだろう。
光司の目には白い十字架が映る。
でも美咲の涙はそれだけではないと思う。
前夜、久しぶりに話して光司への想いが強くなった。母親は姉という役割を期待している。人妻の写真をこっそり撮っていることを知り、弟がその女性に抱いている淡い気持ちに気がついた。
これは嫉妬なのか。
そんな気持ちが絡まり合い、荒々しい景色を前に美咲は心を揺さぶられたのではないのか。勝気に見える美咲だが実は繊細で、いろいろな思いを無理やり抑えこんでいるのかもしれない。
帰路、うす暗い船内で光司を見つめる美咲の目が哀しい。
静かなピアノの音が心地よい。
のんびりとした気分に浸っていると忘れそうになるが、どれもこれもすっきりした解には程遠い。
それぞれの人の気持ち、いろいろな関係がぐるぐるぐるぐる渦巻きとなって回っている。
もうすべてそのまま受け入れるしかないのではないか。それでいい、そんな気持ちにもなる。
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掘っても掘ってもなかなか解にはたどり着けず、出てくるのはさらなる謎ばかり。
青山真司監督の名は知らなかった。彼の映画は難解らしい。
ある記事で榮倉奈々が「監督のこれまでの作品が哲学的だったので、その精神世界のような映画に自分が入っていけるのかちょっと怖かった」と語っている。
『東京公園』はその青山監督にしては親しげでわかりやすい作品のようだ。だけど親しげなのは表向きだけで、やっぱり難解だと思う。
表面は淡々と流れてハッピーエンドともとれるが、その奥には割り切れない思い、複雑な人間関係、隠せない人の本質、生きる哀しさ、越えられない溝、そんなものが透けて見える。
でもどうやってそれを言葉にすればいいのだろう。
どうやらとんでもないものに手を出してしまったようだ。甘い罠だったか。
女性は写真を撮られていることに気がついているのか
潮風公園ではカメラに顔を向け、光が丘公園ではかすかに微笑んだ。
撮られていることに気がついていないわけはない。でも不審に思うこともなく撮ることを許しているのはなぜなんだろう。
不審に思わないのは、撮影者がどういう人物なのかをわかっていることになる。それではいつ、どうやって、だれであると知ったのだろうか。
小説『東京公園』で圭司(光司)は、女性が初島さんの妻であることも名前も最初から知っている。そして、ある時点からは、実際に女性を間近で撮影し、女性がしてほしいと思うことをやってあげるという現実的な話になっている。夫が撮影を依頼したことを女性も初めから知っていて、撮られた写真が夫に渡ることを期待してもいる。
だが映画はそうではない。
初島さんと光司が話すのを女性が見たような描写は見当たらない。そこは曖昧である。
これは難問。どう解釈すべきか悩むところだけど、これについてはあえて理屈で考えないことにしたい。あまり現実に引き寄せてしまうとおもしろくなくなる。
女性(百合香さん)は撮られていることに気づいているというより、撮っているのは夫であると思いたいということなのではないだろうか。
撮られることで夫にその思いが通じることを漠然と願っている。私たちのいる公園に来て一緒に温かい時間を過ごしてほしい、私たちのことをただまっすぐ見つめてほしいと。
カメラを向けているのは夫だ、夫が私にそのまなざしを向けているのだと百合香さんは夢想しているのではないか。撮られること自体が私の愛情表現なのです、と伝えようとしているのではないだろうか。
光司が百合香さんに近づき目の前で何度もシャッターを切る場面がある。
あれは光司の妄想であって実際にそうしているわけではない。
「あれでは隠し撮りにならない」と言う人がいるが、そうではない。
林の中に立っている光司が手にしているのはデジタルカメラ。その視線の先で、光司が動き回りながら百合香さんを激写している。その手にあるのは母の遺品の一眼レフカメラ。
百合香さんをちゃんとしたカメラで思い切り撮影したいという願望があふれ出た光司の妄想。
しばらくしてボーっとした表情でデジタルカメラから目を離した光司は、ふいに富永に肩を叩かれて我に返ったのである。
そして最後の公園。
走ってきた初島さんの向けるカメラに、かりんちゃんを抱き上げて笑顔で応える百合香さん。手を差し出してカメラを受け取り、ちょっと緊張する初島さんにカメラを向ける。
お互いをまっすぐ見つめることができた瞬間。
なんの言葉もいらない。やっと気持ちが通じたという静かな喜びが百合香さんの表情にあふれている。
もう光司が向けるカメラは必要ないのである。
この映画は小津監督作品へのオマージュなのか
ストーリー上の謎ではないのだが、ちょっと気になる「オマージュ」ということについて。
手を後ろに組んだ光司がうつむき加減に歩き回るのを見たとき、「笠智衆かよ」と思わずつぶやいた。富永が「美咲っちは光司くんを愛しています」と爆弾発言したあとの場面。
後日、この映画が小津安二郎監督作品へのオマージュではないかという説を目にした。
昭和の香りのする古い家屋の佇まいとゆったりしたテンポで流れる映像は、確かに『東京物語』(1953年)などの小津作品を思い起こさせる。
さらに言われているのが、会話する2人の人物をそれぞれ真正面から交互に映すやり方で、これは小津映画の特徴的な撮影手法のひとつらしい。富永と光司がマザコンについて話すときの場面がそれで、2人が交互にまっすぐこちらを見て話している。
ほかの作品と似たところがあるとオマージュだと言われる。これは小津のあのシーンだ、こっちは成瀬作品、あっちは○○のあの場面じゃないかと。
では類似点があればそれはオマージュなのか。
青山監督が語った言葉を見つけた。
「当初から目ん玉がまっすぐ見える映画にしようとカメラマンと言っていた」
「2人が向き合って会話するのを双方交互に撮るシーンについては小津と思ってやってるわけではなく、カメラが正面に入り込みたがって…」
—— 2011年6月26日開催の青山真司監督と文芸評論家丹生谷貴志神戸市外語大教授の対談より——
監督自身、小津作品へのオマージュと思ってあの場面を撮っているのではないことがうかがえる。
オマージュという言葉はとても魅惑的。つい使ってみたくなる。
でも、本来の意味「尊敬、敬意、賛辞」を忘れたただの似たもの探しゲームにはしたくない。
(「オマージュ」については、第5回でもう少し考えてみたいと思っています)
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それにしても、先のシーンでの光司の服はなんだってあんなにダサいのか。
前面に縫い目の入ったひざ下丈の黒いパンツ、ヘチマ襟のグレーカーディガン…。これってこの時代の若者ファッションじゃないよね。
監督がこんなことを言っている。
「春馬くんは美しく、うっとりするほど画面映りがいいので、髪型、服装とかで崩していった」
やっぱ、そっか…。
〈第3回につづく〉