川越のビフォーアフター その3
川越の研究も今回で3回目。
まだ読まれてない方は、
こちらをお読みください。
川越といえば…そうです!
今回は蔵造りの街並み 一番街についてです。
2章 一番街の景観と市民のサポート
川越の代表的な観光地「一番街」はそれこそ江戸にタイムスリップしたかのような異空間が漂っています。
ヒアリングの際に、金子様に蔵造りについてお話を伺いました。
旭舎文庫にて、金子様。
ちなみに下の写真は、昭和53(1978)年の旭舎文庫。
以前は駄菓子屋さんでいつも子供達で賑わっていたそうです。
代表的な「蔵造りの町並み」は
川越の他に佐原、栃木にあるそうです。
しかし、川越のようにここまで美しく残っている地域はないと仰っていました。
そこで今回は「蔵造りの街並み」に
焦点を当て、ひとつは川越を語る上で
欠かせない一番街はなぜ歴史的資源を残しつつも、発展を遂げていったのか。
そしてもうひとつの疑問として、市民はどうサポートし観光地と共存しているのかを考えていきます。
まず市民が歴史的町並みについてどのように捉えているのか。
平成31(2019)年発表の川越市民意識調査内の「10年間で川越市の歴史的風致の向上」に関して、「向上した」と前向きに答える人が約50%と半数を超えていました。
さらにどのような点で向上したと感じるかと具体的に問うアンケートでは、「歴史的な街並みを散策する観光客の増加」が最も多く、約74%でした。
また「歴史的建造物の修理や復元による町並みの整備」にも約33%の回答があり、景観の向上を感じている人も少なくないという結果が出ました。
しかし川越も昭和50年代には、町並み周辺に高層マンション建設が計画されていました。
そこに危機を感じた人たちが昭和58 (1983)年に「川越蔵の会」を発足させました。
ここでは蔵造りの町並みの在り方を議論し、歴史的資産を活かした商店街づくりを行ないました。彼らそして自治体、地元有志の方の協力もあり、少しずつ整備され始めました。
平成5(1993)年に蔵造り通りの電線類を地中化します。この電線類の地中化は以降、中心市街地の景観向上や円滑な交通を確保するために何カ所も行なわれるようになりました。
平成15(2003)年には埼玉県より屋外広告物に対し必要な規制を始めました。当時蔵造りの町並みには大小様々な看板があり、景観を損ねていたそうです。この規制により良好な景観が形成されました。
下の写真は、本*から引用したものです。
昭和時代の一番街通りの写真。
みてわかりますように、
電柱や広告物等が街の景観に影響していることがわかります。
しかし、行政や商店街の人の取り組みのおかげもあり今では美しい街並みをみることができます。
写真もだいたい同じ場所で撮っていますので、
変化がすごくわかるのではないかと思います。
一見してみると昔から変わらない町並みだと思いますが、歴史的資源を活かした環境整備が、保全と良好な景観の連続性を作り出していたのです。
そしてもうひとつの考察として、一番街は市民の方があっての観光地なのではないかと考えます。「川越蔵の会」も商店街の方たちが中心ではありますが、川越に想いがある市民の方も多く参加しています。
また平成27(2015)年に中心街にある菓子屋横町が火事で大半が消失しまったとき、市民からの非常に多くの寄付が集まったそうです。
現在の菓子屋横丁。
このように市民が街のためにサポートをしている地域は珍しいケースであり、川越に対して誇りや想いがあり、何かしらで関わることで観光地と共存しているのではないでしょうか。
次回は、3章 一番街の店舗とターゲットの明確化についてです。
参照;『写真アルバム 川越市の昭和』,佐々木高史,2012.12,株式会社 いき出版
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?