ことばのちから
最近、「ことば」が持つ力について考えています。
考えているというよりも、感じています。
一番思うことは、その人の感情とか状況とか思いによって出てくる言葉が本当に変わってしまうということです。
それはとてもすごいことであり、怖いことであると思っています。
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わたしの場合、
本音を言おうとすると、
ホントのことを言おうとすると、
① まず声が震えます
② 涙が出てきます
③ 最後には言葉を話せなくなります(笑)
昔は表現方法が音楽であり、ダンスでありました。言葉はありませんでした。
泣きながらでも、音を奏でることはできました。
泣きながらでも、身体で表現することができました。
でも最近は、それが ”言葉” であることが多いんです。
”言葉” で伝えなければならない機会が多いんです。
だから今、わたしは①〜③に向き合わなければならないことが多いです。
言いたいこと、伝えたいことがあるけれど、その場でぶっつけ本番で言おうとすると声が震えて涙が出てきちゃうから、言いたい!って思ったタイミングでなかなか言葉にできません。
だからまず、1人の時に家で予行練習をしたり、先に言いたいことを出すということをしています。
紙とかに書き出したり、パソコンでWordに書き出したり、ということをしています。
その時、涙をポロポロしながら書いたりします。
でも、これが本音だから、本当のわたしの言葉だから、なんとか外に出してあげたい、迎えてあげたいと思って出しています。
出してあげた後に、時間を置いてその言葉をどうするか考えています。
人に伝えることもあるし、絵にすることもあるし、今は置いておこうとする場合もあるし、ノートにメモしておくだけのこともありますし、人に聞いてもらうこともあります。
そんなことを最近していて、思ったことがあります。
苦労して自分から出した言葉、自分が本当に言いたい言葉には「ちから」がある、と。
言い換えると、
「その言葉が相手に届いている感覚がある」
「伝わっている感覚がある」
という感じです。
自分の本当に言いたい言葉と対峙するということは、
きっと自分と向き合うということなんだろうなぁと思っています。
言葉と向き合うことで、自分はどれだけ言葉を飲み込んで我慢しているのかがわかります。
これはきっとわたしだけじゃないはずです。
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言葉は人を傷つける武器にもなります。
自分の言いたいことが「ふざけんな!」だった場合、その言葉は力を持った人を傷つける武器になってしまうかもしれない。
力のある言葉は人に伝わってしまいます。
つまり、自分の言葉が武器になって人を切ってしまうかもしれない。
その怖さを最近感じています。
言葉だって完全ではないから、”言葉” そのものの取り違えで傷つけてしまうこともあるかもしれない。
こういうことを考えた時、夜に書いた文章をそのまま送るのではなく、一度寝て時間を置いてから読み返す意味が分かります。
いっときの感情で放った言葉で、その言葉を受け取った人の人生を揺るがすことだってあると思うんです。
わたしはまだまだ自分の言葉に向き合う必要があるな、と日々感じます。
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でも、言葉が不器用でも、言葉が足りなくても、言葉が少々きつくても、その人の優しさと思いやりが伝わってくることもあります。
そういう時、わたしはとてもむずむずします。
わたしの今、このむずむずについて考えています。
このむずむずをどうしたらいいんだろう。
この伝わらなさはどうしたらいいんだろう。
この人が言いたいことはこの言葉で表現できているのだろうか。
この人が伝えたいことが伝わるためにはどうしたらいいんだろうか。
思っていることは一緒のはずなのに、
言葉にすると伝わらなくなってしまうのは何故なのだろう。
思っているその一言を伝えればいいのに、
その人を前にすると言えなくなって別の言葉になってしまうのは何故なのだろう。
そういう場面を見るたびに、自分がそういう状況になるたびに、むずむずしてしまいます。
時にはいろいろな人の気持ちが自分の中に流れ込んできて、その状況を見ているのが苦しくて、
「なんで伝わっていないのだろう。。。なんかすれ違っている気がする苦しい。。。うえーん( ; ; )」
と涙が溢れたりします。
わたしに何ができるだろう。
それを今、考えているところです。