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言葉に生かされている

この一年で、仕事に対する考え方が大きく変わった。
自分が認められるためではなく、自分の大切な人たちを支えるためにもっと強くなりたいと願う瞬間が増えた。
多くの人を救って得られる賞賛よりも、ごく少数の愛する人を確実に支えられる力が欲しい。
そんな中、一番最初に磨きたいと思ったスキルが、言葉である。
なぜ言葉なのか。それは私が何よりも言葉に救われてきたからだ。
半ば依存していると言っても大袈裟ではないくらいに、言葉は私の人生の柱であり、救世主だった。

幼少期の私と言葉

小学校の頃の私は、いわゆる本の虫、活字中毒を絵に描いたような子どもだった。
5分でも休みがあれば本を開き、土日のお出かけ先はいつも図書館。誕生日は図書カードをねだり、一度読み出すと歩きながらでもご飯を食べながらでも本から目を離すことができなかった。

本を開けば私は必ず未知のものに出会えた。日常とは異なる景色、時代、はたまた感情。未知というのはどうしてこんなにも人の心を惹きつけるのか。
自分の知らないものがこの先にある、見たことのない世界が広がっている。そんな予感に私の心はいつでもときめいた。
田舎の小さな町にいながら、私は本を通して何度も冒険に出かけていた。言葉はいろんな世界の見方を教えてくれる眼鏡のようで、その眼鏡の数は私の心の豊かさにそのまま繋がった。

そうして私はどこにいても常に広い世界を想像しながら生活するようになる。言葉は私に、人によって世界の見え方は異なり、今いる場所が全てではないということを教えてくれた。
そうやって養われた世界への想像力は私の心の安定剤となり、優しさの根源となった。そしてどんなことがあっても前を向く強さを与えてくれた。

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大学時代の私と言葉

大学に進学し、私は18年間育った地元を初めて離れることとなる。
小中高とほとんど変わらない人間関係の中で生活すると、日常の中で自分の目にふれる選択肢も価値観も限られてくる。
そんな私が突然東京に出てきて、今までの何十倍もの選択肢と価値観に出会う。もはや選択肢がいくつあるのかもわからない。求めればいくらでも選択肢を広げられるのが東京だ。

上京した直後、私は与えられた自由の量があまりにも大きすぎて判断力のキャパオーバーを起こし、苦しんでいた。
そのうち私は私がわからなくなり、アイデンティティを見失った。東京という場所は(少なくとも地元よりは)多様性に寛容であったが、自分という人間を明確に打ち出せない人間にとっては周りに翻弄されて疲弊していく場所でもあった。

そんな私が自分を取り戻せたのは、言葉のおかげだった。
大学では日本文学を専攻し、吹奏楽部にも所属していた私は、文学や音楽を通して自分の感じたことを言語化する機会に恵まれた。
自分の感情と向き合って出てきた言葉は、正解だと信じて借りてきた他人の言葉の何十倍も手触り感があって、愛しくて、自分の心に染み渡った。
心が動く音楽や文学に呼応して出てくる自分の言葉が、私が何者であるかを一番鮮明に物語ってくれた。
私が確かにここにいるのだということを、私が紡ぐ言葉が証明してくれた。

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就職後の私と言葉

大学を卒業し、私はスタートアップのベンチャー企業に就職した。

就職したばかりの頃の私は圧倒的に自信がなかった。
今まで行動よりも思考を重視してきた私と、何よりもまず行動力を重視する会社。自分が今まで生きてきたコミュニティとあまりにも違う環境だった。
ただでさえ入社一年目ではできないことばかり。その上、会社の考え方を受け入れきれず、かといって自分の大事にしているこだわりも捨てきれない。
中途半端なまま会社でも成果が出せなくて迷惑をかける日々が続く。理想ばかりが先行して実態が伴わない自分に苛立ちが募る。
私の自己肯定感はみるみるうちに下がっていった。
自分は何の価値もない人間なのではないか。こんなことで悩んでしまう私はくだらない・・・
つべこべ言わずに素早く行動できる同期を横目に、私は世界から置き去りにされたような、自分だけが不正解のような孤独感に何度も苛まれた。

そんな孤独感から私を救い上げてくれたのもまた言葉だった。
仕事の合間に読む自分の憧れる人たちのブログ、講演、インタビュー。そこに落ちている言葉を拾い集めて、自分を支える最後の砦かのように縋った。
自分の言葉にできなかった思いを代わりに言語化してくれている人を見つけるたびに、心の置き所を見つけたような、自分が肯定されたような気持ちになった。顔も見たことのない誰かの言葉が、自分の弱い部分に寄り添って、私を孤独から救ってくれた。
私が完全に折れてしまわなかったのは、言葉を通して名前も顔も知らない仲間と出会えたからだ。
言葉のおかげで、私は本当の意味で孤独にはならずにすんだ。
自分の考えも、会社の考えも両方間違いではない。少しずつそう思えるようになると、不思議と会社の考え方も自分の仕事に取り込めるようになり、自分でも胸を張れる仕事が増えていった。

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誰かの中に一生残り続ける言葉を

大学で文学を専攻しているというと、「文学部って就職率悪いじゃん」「文学勉強して何が得られるの?」なんて言われることがあった。当時の私はそんな扱いを受けることに心底怒っていた。

それなのに。気づけば自分だってプロセスよりも結果だ、結果が出なければ意味がない、なんて思考になっているから怖い。
だって、言葉なんて主観的で曖昧なものは共通認識が取りづらいし、誤解も生まれやすい。価値だって一定にははかれない。
要は面倒でわかりづらいのだ。

でも、ふと自分の人生を振り返ってみると、私を本当に支えてくれたのは、そんな曖昧なものばかりだったと気づく。
言葉に、その先に広がるもっと曖昧な感情やカルチャーに救われてきた。
目に見えるものよりも見えないものに救われ、価値を感じてきた人間も確かにいるのだと、自分の人生を振り返ってハッとした。
私にとって大事だったのは、客観的で誰もが認める結果ではなくて、私の心を豊かにしてくれる主観的な言葉や感情であった。

だから、私が人にプレゼントするなら、結果やステータスではなくて、その人に一生残り続ける言葉がいい。
人の中に一生生きていく言葉を紡げる人間になりたい。それはきっと私がいなくなっても、受け取る人たちを一生支えてくれる柱になるから。

今まで私が言葉に支えられて生きてこられたのと同じように、私も言葉で誰かを支えられるようになりたい。
自分の人生を振り返った今、誰よりも言葉の可能性を信じられる自分でいたいと改めて思う。

そんな気持ちを、これからの私の決意表明、そして備忘録として書き留めておきたくなって、言葉をテーマにnoteを書いてみた次第です。

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