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『敵とのコラボレーション』を読んで。

こちらは『敵とのコラボレーション』(アダム・カヘン著 , 小田理一郎 監訳、東出顕子 訳)の感想文です。
http://www.eijipress.co.jp/book/book.php?epcode=2263

選書理由

「ビジネスアナリストという仕事をしていると、ステークホルダーの利害不一致に度々遭遇するんだけど、そうした場に居合わせたときにどうやって解決するのが良いのか・・・常々悩んでいるんだよね・・・その糸口として紛争解決を学ぼうと思っているんだけど。」

・・・と、ある後輩に話したところ、本書を執筆されたアダム・カヘン氏の存在を教えてもらった。これは読まねばなるまいと、その日のうちのamazonでぽちったのが本書。
後輩君、その節はどうもありがとうございましたm(_ _)m
※ビジネスアナリストって何?と思った人は是非ググってみてください。

渡る世間は敵ばかり

本書はファシリテーターとして企業や政府の抱える問題解決をサポートしてきたアダム・カヘン氏の書籍。カヘン氏は複数の書籍を執筆しており時系列に氏の学びをしたためている。本書は3冊目?4冊目?あたり。実は時系列を考えず手当たり次第に購入してしまい、1冊目から読めなかった。学びの変遷を踏まえずに読むことになったのは反省点。

本書ではカヘン氏の過去の取り組みでの経験をもとに「あまり協力したくない相手とも協働して問題解決するための心得」のような事が書かれている。

複雑な問題に直面した時に取る対応には「コラボレーション」「強制」「適応」「離脱」の4つのパターンがある。強制は自分の主張を相手に強制すること、適応は誰かしらの意見に従い自らを適応させること、離脱は環境から逃げること、そしてコラボレーションは対立する相手と対話し折り合いをつけながらより良い道を探ること。コントロールが効く環境下では自分の意見を強制することで状況を変えやすい等、問題に対してどのパターンをとるかは状況や当人の好みに拠るところが大きい。本書では、そうした対応姿勢の1つであるコラボレーションを進める際の姿勢・考え方を紹介している。複数のステークホルダーの利害が絡まりあっている状況下でも問題解決をはかろうと思ったら、実質それしか選択肢がない。そして複雑な利害関係者とのコラボレーションこそがカヘン氏の主戦場である。

ところで、うちの夫は所謂ホウレンソウが苦手で、残業で帰宅が遅くなるときに「今日は遅くなります。〇時頃には帰宅します。」と連絡することが出来ない。時間を忘れて過集中するきらいがあるようで、いつもの帰宅時間を過ぎても仕事していることに本人は気が付かないらしい。だから連絡しない、ではなく、出来ないという表現が適切だと思う。いつも帰宅予定時間を大幅に過ぎたころに「もしかして、今日は帰宅が遅いのか?」と私は連絡をする。そしてやっと「遅くなります」と事後報告が飛んでくる。2時間くらい既読が付かないこともある。普段次女のお風呂や夕飯などを夫の帰宅時間に合わせてコントロールしているので、無断遅刻は非常に困る。帰宅が遅いと分かったタイミングで慌てて段取りを変更して家事育児に取り組まねばならない。私は残業で疲れているであろう夫に激詰めLINEを送り付ける。

こういう時、私は夫が連絡なしで遅く帰宅するせいで私が苦労させられている!許せない!夫は行動を見直すべきだ!と一方的に夫を攻める気持ちにかられる。はい。これが「相手を敵化する」という症状ね。テストに出るからみんな覚えておいてね。

意見の相違や対処が必要な相手を目の前にすると、相手を敵のように認識してしまう。相手こそが問題の原因であり、自分を傷つけている人だと決めつけてとらえ、行動してしまう。
相手を敵化すると気持ちが高ぶり、満足感があるし、正義や英雄気分さえ感じるが、その態度は課題の現実を曖昧にしてしまう。敵化は対立を増強し、問題解決と創造性の余地を狭めてしまう(要約)。

本書より

上記はカヘン氏の敵化の説明を要約したものだが、皆さんにも身に覚えがあるのではないだろうか。私は前述のとおり、ちょっとした日常生活でも敵化しまくっており、カヘン氏の説明を読みながら胸が痛かった。

小心者の私だけかもしれないけど、仕事のプロジェクトで利害関係者と調整するとき、なかでも特に利害関係が合わなさそうな相手と話さないといけないとき、私は自分の中で相手を「説得しないといけない」「攻略しないといけない」と感じることがある。というか、そういうのがしょっちゅうだ。こういう心理は問題に対処する姿勢としては「強制」にあたる。相手をコントロールしようとしている。
問題解決の従来型の姿勢はこの強制にあるように思う。賢い人が解決策を検討して実行計画を立て、トップダウンでメンバーに「この通りにやれ!」と命令する。企業ではよく見られる光景だ。こういうのは上位者が指揮命令権を持つ企業ではそれが成り立つこともあるのだろうけど、指揮命令権が機能しない複雑な問題はこの姿勢では解決できない。複雑な問題を抱えているが、相手をコントロールできず、けれど適応も離脱もしたくない、というときに人はコラボレーションを選択せざるを得ない。

ではコラボレーションをうまく機能させて問題解決をはかるにはどうしたらよいのだろうか?ここではカヘン氏の提唱するコラボレーション手法(ストレッチコラボレーション)のポイントの中で心に残ったものを紹介したい。

性急に唯一の答えを探さない

問題解決というと、「情報を集めて論理的に解決方法を見出し、その実行に向けて計画を練って関係者と合意する」・・・という従来型の姿勢を思い浮かべる。私はコンサルティング会社に勤めているので、これは当然のセオリーだと思っていた。だが、前述のとおりこれは強制型の思考でコラボレーション型の思考ではない。特にカヘン氏が提唱するストレッチコラボレーションでは御法度の考え方だ。実はカヘン氏は物理学専攻で、問題解決の手法を極めるプロで、従来型の賢い人たちが最適解を発見して実行計画を練る…という手法の雄のような存在だった。ところが社会問題などを解決するファシリテーターとして複雑な問題解決に取り組む中で、その方法ではコラボレーションにより問題解決することは難しいと学び、過去の自身の取り組みを反省していく。

問題を目の前にすると性急に問題への統一見解・解決策・計画を明言したくなるのだが、実際のところ有効な解決策がはなから出てくることはない(すぐに解決策が出てくる問題であれば既に解決しているであろう)。そういう時は、既に想起される既存の選択肢から解決策を選ぶのではなく、利害関係者の対話を進めながら、何らかの取り組みを進めながら、新しい選択肢を具体化させていくという実験的なアプローチをとっていくのが良い。対話や取り組みを進める過程で関係者の心境も状況も変化していく。コラボレーションによる問題解決は有機的なのである。問題解決に最適な1つの答えがある、というのは幻想である。私たちはその前提を疑うべきだ。多様な他者と協働するときは1つの真実、答え、解決策への合意を要求できないし、する必要もない。実は解決策に対して関係者で合意がなくても問題解決を進めることはできる。現状を改善したい、より良い状況にしたい、という思いへの合意さえあれば、解決に向けて協調することはできる。唯一の答えを定めて、その通りに関係者を変えようとするのではなく、各々がそのために自分たちの何を変えるべきか想起できるような状況こそが、問題解決へ向けた未来をつくる。

愛と力どちらも必要

利害関係者と対話していくときには愛と力の両方を使うことが必要だ。愛は相手の主張を受け入れて屈服すること、力は自分たちの要求を主張すること。コラボレーションは愛と力のどちらか1つだけでは成り立たない。どちらにも重きを置いて、バランスを取りながら取り組みを進めていく。全体の利益だけを見ると時に自分たちの部分的な利益を犠牲にしなければならないと思うかもしれないが、絶対的な全体の利益というのはない。複数の利害関係者の部分的な利益が重なり合って全体の利益が構成されている。
これは逆を言うと、主張がないとコラボレーションに関わることが出来ない、ということでもある。つまり、当事者でないと問題解決に関わることが出来ないのである。問題に向き合った際の姿勢(視点?)には①状況を演じている俳優を指揮する演出家(上から)、②俳優を見ている観客(外から)、③俳優=状況の共創者(当事者)という3つがあり、①②ではコラボレーションによる問題解決は進められない。上から、もしくは外から問題解決に向き合おうとすると、「他者が何をすべきか」という視点になってしまい、相手をコントロールしようとするし、それがうまくいかないとフラストレーションを抱えてアンバランスになる。たとえカヘン氏のようなファシリテーターであっても、俳優の1人としてその場に坐することが必要らしい。視点を他者ではなく自己に向けて、この状況に対して自分は何をすべきかに集中することが肝要である。渋滞にはまったときに「自分は渋滞にはまっている」というのと、「私も渋滞の一部だ」と思うのでは、問題に対する向き合い方が変わり、後者の方がより問題の一部として向き合える。問題の外にいる人は本質的に問題解決には関わることが出来ない。

コンサルティング会社に所属していると、従来型の強制的な問題解決が正しいと思いがちだし、第三者的な立場で問題に接することが普通に思える。けれど、物事はそんなに簡単ではないだろう?それでうまくいくの?という気持ちも同時に持っていた。
数か月という短期間だけの付き合いで、顧客の状況を把握して、解決策とロードマップをパワーポイントにまとめて成果物として納品する。そんなことに意味があるのだろうか。私の立場からすると、まったく無意味ではないと思うけど、それは予算を確保したり何かを始めるための一助でしかなく、その先が本番だ。契約範囲としてはそこで終了かもしれないけど、それで問題解決屋を名乗るのはいかがなものかと思う。
私が仕事で相手にしているのは業務というかビジネスプロセスやその基盤となるアーキテクチャなので、まだ解決策というかアイデアはわりと明確かもしれない。ただビジネスプロセスにはいろいろな部署・人が関わっていて、政治的なあれこれや心情的なものも大きくかかわっている。数年がかりの業務変革は調整に調整を重ねて現実的な業務を設計し実装していく壮大な取り組みで、小さな変更も含めると終わりがなく、サクラダファミリアを作ることに近いような気もしている。思い描いたものとは違うところに着地することも多い。私たちが向き合っているのは答えがあるペーパーテストではない。庭づくりをしているようなもので、相手にしているのは有機的で変容していく生き物だ。

本書を読んで、改めて自分が仕事にどのように向き合っていくべきか、ぐるぐる考えこんでしまった。正直、当事者としての関わりや進め方のアプローチにはまだまだ至らぬところだらけで、カヘン氏の言葉はどれも耳が痛い。ただ、なんというか、私は当事者として問題解決に臨みたいのだなとしみじみ思った。コントロールをきかせて統制を保ちながら何かを変える試みよりも、どこに着地するか分からないけどbetterな未来を作っていく試みの方が心惹かれる(統制とかコントロールが得意な性格でもないし)。これから自省しながらチャレンジを続けねばなるまい。

いま、本書とは別にカヘン氏のシナリオプランニングの書籍を読み進めている。そして今日、新刊も出版された。世界で活躍する先人の学びを糧にして精進していきたい所存。

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