発達障害の診断は本当に必要なのか
昨今、発達障害というキーワードが様々なところで飛び交っています。
「あの人発達障害っぽいよね」
「そういえばクラスにいたかも」
「私ってもしかして発達障害なんじゃないか・・・」
しかし、耳に飛び込んでくるわりに、その本質はよくわからない。その実体が捉えられないまま、「発達障害」という言葉だけが広まっているように感じます。
僕は発達障害の中でも自閉スペクトラム症(以下ASD)を専門に研究しています。また、様々な障害を持つ方を支援する作業療法士でもあります。
そのことを知っている友人たちの中には、「発達障害のことは遥に聞いてみたらいいのでは」と思ってくれる人もいるようです。
気軽に相談しにくいことも多い中で、あえて僕に話してみようと思ってくれることをとてもありがたく感じています。そして、色々な人から発達障害のことについて聞かれるたびに、その定義についてもっとわかりやすい形で伝えることができないかな、と考えるようになりました。
何より、なぜこの概念が使われているのか、なぜ支援が必要なのか。発達障害という言葉は本当に必要なのか。自分なりに整理して発信しようと思いました。
この捉え方は人によって違うことは理解していますし、場合によっては誰かの理解とそぐわないかもしれませんが、現状の僕の考え方をまとめたいと思います。
※このノートは以前書いた記事を再校正してまとめたものです。
発達障害の定義
少しだけ厳密な定義について触れます。
アメリカ精神医学会が発表しているDSM-5という診断基準では、
神経発達症群 / 神経発達障害群 とは、
「典型的には学童期以前に出現する、通常の発達とは異なることで特徴づけられ、そのために日常生活や社会生活の困難をきたす状態」
とされています。(診断基準の中では発達症と呼ぶ方向に向かっていますが、あえて馴染みのある言葉として発達障害と記載しています。ご理解ください。)
僕の考える解釈のポイントは以下の2つです。
・学童期より前に特徴的な発達のパターンが出現している
・日常生活や社会生活において何かしらの形で困っている
以上の特徴を共通項として、発達障害はいくつかのカテゴリーに分けられます。代表的なものがASDやADHD(注意欠如多動症)など。このnoteでは、細かい分類については言及しません。
上に記載されているポイントで、僕が最も重要だと考えているのは2つ目です。
「日常生活や社会生活において、何かしらの形で困っている」
当たり前のように思うかもしれませんが、これが発達的な特性を個性と障害に分ける要因だと考えています。それは以下の問いに対する答えだからです。
なぜ診断が必要なのか
発達障害は、他者から見るとわかりにくい障害と言えます。一目でわかる身体的な特徴があるわけではないからです。
その結果、飛び交うのはこんな言葉です。
「見た目がふつうなのだから、みんなと同じだ。ふつうに決まっている。」
「何でみんなと同じように出来ないんだ。言い訳するな。単なる努力不足だ。」
しかし、見えない何らかの違いによって困っている人たちが確かに存在します。人は理由がわからないものごとに対して拒絶反応を示し、集団に馴染めない人に対して、「変な人」というレッテルを貼ります。
つまり、他人から一目ではわからない本人の特性が理解されず、社会的に不利益を被ることが少なくないということです。
このことから、発達の特性によって生きづらさを抱える人たちに対して、社会的な理解と支援を提供することが重要だと僕は考えます。
仮に、ASDっぽい特性やADHDっぽい特性を備えていたとしても、社会生活を送る上で困難がなければ、それは障害にはなり得ません。
しかし、生まれつきの発達の違いによって困難を抱えている人が、その理由を努力不足と決めつけられた時、どう感じるでしょうか。自分の特性を十分に理解できず、自分で自分はダメなやつだと結論付けた時、どう思うでしょうか。
相当な生きづらさを抱えてしまうことは、想像に難くありません。そのような状況が蔓延している社会は、僕にはとても息苦しく思えます。
そういった状況に対する現時点での解決策の一つが「発達障害」の診断なのです。
同時に、その線引きってどこまでなんだろう?と考える人も少なくないでしょう。
「単なる甘えじゃないのか」
「みんな一つや二つ似たような悩みがあるのにがんばってるんだぞ!」と。
その答えとして、僕は以下の考え方を持っています。
発達のでこぼこ + 不適応
まず、個体の設計図であるDNAが異なるため、人それぞれ発達の過程は違います。また、発達は生育環境に大きく影響を受け、同じDNAを持っていても様々な発達の形があります。
例えるならば誰もが完全に真ん丸な円、いわゆる「ふつう」にはなりません。
どの人も少しはでこぼこした形をしています。
しかし、多くの人はそのでこぼこが社会生活を損なうほど大きくありません。
ちょっと注意がそれやすいけど、何とか人の話は聞いていられる。
少し頑固なところがあるけど、状況によっては合わせられる。
ボールに例えれば、月みたいにでこぼこしてるけど、転がせば回っていく。
パズルで例えれば、押し込むとちょっと軋むけど、少し押せば枠にはまっていく。
そんな状態です。
しかし、発達のでこぼこが大きい人たちは、そう簡単にはいきません。
飛び出している部分とへこんでいる部分が大きすぎる。アンバランスすぎる。
先ほどの例えで言うと、押しても押してもなかなかハマらないピースのよう。
この場合、パズルの枠が社会であり、他のピース、つまり他人が社会である、ということになりますね。
なかなかハマらないピースは、他のピースに押し出されてしまうか、無理やり形を変えてぎゅうぎゅうの状態ではまるしかありません。
過ごしにくい環境に対して適応しようと必死に頑張り続ければ、必ずどこかで無理が生じます。その状態をここでは「不適応」と呼びます。
つまり、発達のでこぼこは誰もが持っている。不適応がセットになることではじめて「障害」という名前がつく。僕はそう考えています。
ここで重要なのは、発達障害というのは特別な状態ではなく、全ての発達が連続線上(スペクトラム)であるということです。
つまり「普通の人」と「発達障害の人」がいるというよりも、
「すごく特性の強い人」「まあまあ特性の強い人」
「ちょっと特性があるけど診断は不要な人」
「その特性をほとんど持っていない人」・・・etc
がグラデーションのように続いている感じです。
「白か黒か」ではなく、グレーの濃さによって支援の必要性が決まります。
※杉山登志郎先生の提唱されている発達凸凹を参考にしていますが、本記事がそのまま理論を説明しているわけではありません。詳細に知りたい方は先生の論文や著書をご参照ください。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/shonijibi/35/3/35_179/_pdf
なぜ支援が必要なのか
発達障害を持つ方への支援を考えるときに、まるで
「これが人間の理想です!君たちは普通の人と違うから枠にはまりなさい!」
と言わんばかりの押し付けのような印象を受ける人もいるかもしれません。
しかし、僕らは対象の方を「ふつう」にするために支援するわけではありません。
また、「障害はあるけど〇〇ができるなんてすごい!」「発達障害者は苦手なところはあるけどすごいところがある人たちなんだ!」というような空気を作りたいわけでもありません。
飛び抜けた「天才」と呼ばれる人たちの一部には発達障害傾向があった、という話を聞いたことがあるかもしれません。しかし、発達障害者は「天才」と「そうでない人」として分けられるようなものではありません。
もちろん、尖っている強みがあるのは素晴らしいことです。しかし、他者が発達障害者に天才性を期待することは「苦手なことはあるけど、ここが優れているからこの人には生きる価値がある!」といった優生学的な発想に近いように思えます。
そんなことを誰かに言われなくても、誰かがわざわざ認めなくても、その人の存在価値はあります。
自分自身で「自分はこういうキャラだったのか!」と理解できることが重要であって、障害受容を押し付けるなんて論外です。
あくまでも、生きづらさを減らし、その人らしく過ごせることがゴールです。
さらに、重要な知見として、発達障害者は長期的な二次障害のリスクが非常に高いことがわかっています。僕が予防的な観点で支援を行うことが重要だと考えているのは、この二次障害リスクがあるからです。
この場合の二次障害というのは、例えばうつ病や強迫性障害など。つまり、疫学的に精神障害を引き起こすリスクが高いのです。
もちろん、ジョブマッチングが適切であったり、工夫して上手く適応できている人もいます。一方で、うまく社会生活を送ることができず、明らかに社会的な不適応を起こして苦しんでいる人もいます。
いくら待っていても、誰かが彼らにとって過ごしやすい社会を作ってくれることはありません。ただ、「ふつうじゃない人」として隔てられるだけです。
だからこそ、これは喫緊の問題なのです。
この問題に対処するために僕らが個人のレベルで取り組めることは、その人が自分自身を大切にしながら過ごせるよう、少しの手助けをすることです。
コミュニケーションが苦手な人には、一人ひとりに合ったコミュニケーション方法を考えます。感覚や運動に困り感を持つ人には、その人が困っている理由を分析し、どの様にすればより過ごしやすくなるのか共に考え、働きかけます。一般就労による生活がうまくいかない場合は、どの社会資源を利用すればよりスムーズに社会と関わることができるかを考えます。
もちろん、得意分野や好きな部分があれば、そこを伸ばしたり活用したり出来るように考えていきます。
障害者をふつうの人にしよう、ではありません。
全ての人が少しでも生きやすくなることを目指して支援をしています。
発達障害という概念は本当に必要か?
ここまで、発達障害を持つ人に対する支援が非常に重要なことだと書きました。そこだけ見ると、診断が前提であり、絶対必要だ!という考え方もあるでしょう。
しかし、診断の必要性については、両側から考えなくてはなりません。
メリットは社会的な支援や理解の機会を提供できることです。また、自己理解につながる可能性もあります。診断によって、自分や家族が特性についてより深く理解し、支援や工夫につながれば非常に有益です。
一方で、デメリットもあります。それは、発達障害というある種のレッテルを貼られることで、不利益を被る可能性があることです。
その人の一部でしかない発達の特性が、「あの人は障害者だから」と、まるでその人そのものの代表かのように扱われることもあります。
肌でその状況を感じていれば「発達障害と一生付き合っていくことになるなんて」と絶望する人もいるかもしれません。
また、困難度は高いが診断としてはギリギリで定型発達と判断された人が、支援を受けられないという問題もあります。
この場合、本人の支援ニーズが非常に高くても
「あなたは『ふつう』なんだから」
と切り捨てられてしまうリスクがあります。
このように、診断にはポジティブな面とネガティブな面があります。
障害は、常に何らかの比較によって生まれる概念です。
先述のように、発達はスペクトラムであり綺麗に分けられるものではありません。しかし、診断をするというのは白黒はっきりさせることに他なりません。
「ふつう」を決めるから「障害」が生まれます。
本当はそんなもの決めなくても多様さを受け入れられる社会であるべきですが、
現状はそうではありません。「今の」発達障害という概念が適切なのかどうか、僕は答えを持ち合わせていませんが、困っている人が一定数いることだけは確かです。
そのため、現時点では発達障害という診断が必要だと考えています。診断されることで得られるメリットが、デメリットを上回る状況が少なくないからです。
同時に、全ての問題を解決できる答えに僕は辿り着いていません。
本当に悔しいです。
現在の発達障害という概念は完全ではないし、社会も完璧ではありません。だからこそ、連続線上で困っている人が、どうすればより生きやすくなるのか、これからも考え続ける必要があります。
最後に
課題は山積みです。それでも、僕らが長期的にやるべきことは、多様であることが当たり前の柔軟な社会を作ることです。多様さに対する社会の強度をあの手この手で上げることです。
発達障害に限らず、全ての人が自分の個性を大切にできる社会は、誰にとっても生きやすい社会であると思います。
当然僕ひとりでは実現できませんし、少しずつそれぞれの考え方は違います。
だからこそ色々な方と一緒に、より良い未来を考え続けながら、少しでも前に進めていきたいと思っています。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。