
起業家になるかもしれない旦那を持つ嫁として心しておくと決めたこと
旦那がパン屋になりたい嫁として、できる限りのことをしたいといつも思っているわけだけれど、応援にもいろいろと種類がある。
目に見えるもの、例えば技術だったり、お店の内装だったり、接客だったり、そういうことは特に重要ではない応援。
最大の応援とはもっと心の面で大事にしておきたいと思う、教訓のようなもの。
私なりに考えて「別にパン屋として生きなくてもいい」と言ってあげられる気持ちをもっておくことに着地した。
というのも、人間の生涯は仕事だけで終わらせるべきではないと思っている人なので、旦那が働くことで人生を悔いるなら、働いてほしいとは思わないのだ。
何より、働くことは自分の人生を捧げている状態で(代価としてお金をもらうわけだが)、人様に捧げる時間があることは決して悪いことではないけれど、捧げるばかりに時間が割かれてしまったら本末転倒。
彼には私や家族や周りの人とも過ごしてほしいし、彼がやってみたいことをやり遂げることに費やしてほしいと思っている。本人もそれを望んでいる。
もちろん金銭的に余裕が出たら楽にはなるかもしれないけれど、お金だけの話なら、本気出せばいくらでもどんな仕事でもある。
ここで働き方の話をしたくなってきた。
そもそも日本人の働き方は世界的にみてもおかしい。
特に時間の費やし方には一言、言いたい。
そんなに働かなくてもいいんだよ。
例えばうちの家では私が幼かった頃、父親が家にほとんどいなかった。父親との関係はとてもいいものだけれど、幼少期に父親と遊べなかったことは子どもながらにとても不満足なものだった。
実際に一時期は父親がよくわからなくもなった。単純に時間を過ごせないことで思いやれない気持ちが生まれたりするもんだ。
「お父さんはね、みんなのために働いているのよ。感謝しなさい」
などと言われて「うん」と返事するわけだが、子どもの頃に〝本当〟の意味で理解できるはずがないと思う。そして理解したところで、結局、大人の受け売りなのだ。深い意味を持たずにそういうものとして受け取った時、疑いもせずにそのまま自分の子どもに同じことを言うようになる。
今、自分の世代がその順番になって今度は私が言う番。
が、ちゃんと立ち止まって考えたい。
当たり前に受け継いできたものは本当にそのまま繋げていいのだろうか?
人がどうかはどうでもいい。
読者のみなさんにも、ここに私が書いていることを鵜呑みにしてもらいたいと思って記事を書いているのではない。
大切なことは私は私の、みなさんはみなさんの考えを、誰の意見でもなく、自分の頭で考えて生み出すこと。
残念ながら時間は限られている。
限られた時間の中で私たちのできることも現実的にまた限られている。
そしてそこへ老いが重なると色々なことが不安になり、お金に頼ることになってしまう気持ちはわかる。
けれど時間をすべてそれにかけるほど、案外、お金って信じられるものでもない。日本円の価値だっていつ大暴落するかわからないあたりに、信用を疑う目を持っておくべきだと思っている。
そしてお金で手に入れられるものは結局、お金思想から抜け出せない。
考えて出した私の見解。
「我が旦那よ、どうぞ好きなようにお生きなさい。」
そう、愛情のないパンを焼くくらいなら、気軽にやめちまえ、と言ってあげられるようにしておこうと心構えている。
よし。最大の応援、用意できました。
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