240.「私」はそれぞれ私以外の人の中に複数存在している
小中学生の頃にドはまりした小説『ドラゴンラージャ』シリーズ。
完璧に創り込まれたファンタジーの世界に、魅力あふれるたくさんのキャラクター、読んでいて思わずニヤついてしまうほど面白いユーモア、感動のストーリーや、哲学のような深い言葉たち……。
挙げればキリがないほど素敵な作品でした。
個人的には『ハリー・ポッター』や『ダレン・シャン』シリーズにも引けを取らない完成度の小説だったように思います。
その中で、特に今でも鮮明に覚えているフレーズが、上記の「私は単数ではない。」というセリフです。
当時、中学英語を習っていたので、単数形とか複数形という言葉を知り始めていました。
「私」は単数じゃないか。
そんなことを思っていたので、衝撃的な言葉だったのを覚えています。
「私」はそれぞれの人にとっての「私」がいる
まるで屁理屈のようにも思えるかもしれませんが、「私」とは自分が認識している自分のことです。
ただ人間である以上、誰かと関係を持ち、何らかの感情を抱く。
そしてその関係性や感情は、記憶としてそれぞれの個人に蓄積されていく。
そうすると、「私」の範囲は広がります。
僕個人の超訳かもしれませんが、私といっても自分が知っている自分と、母親の認識している自分、友達が認識している自分、先生や先輩、後輩、上司が認識している自分は、それぞれ微妙に違いがあるでしょう。
それはまるでペルソナの話をしているようです。
ペルソナとは、マーケティングでは主にターゲットのことを指しますが、心理学では言葉通りの意味で「仮面」、つまり人間の外的側面のことを指します。
人は全員に同じ顔を見せておらず、それぞれに見せる自分がいるはずです。
それ自体は当たり前のことであり、社会的な生き物である以上ペルソナは必ず存在します。
私、と一言にいっても、いろんな私がそれぞれの人の記憶の中に宿っています。
心理学で学ぶ「ジョハリの窓」にも近い考えかもしれません。
先日僕が観た映画『流浪の月』の感想を、最所あさみさんという方が書かれていました。
そのnoteを見て「自分が認識している自分と、世間に映る自分」を思った瞬間、上記のようなことを思い出したという経緯です。
確かに『流浪の月』の中では、登場人物たちはそれぞれの人との関係や、世間との関係の中に閉じ込められていたように思います。
僕も、映画を観た直後に感想や考察を書きました。
「人は見たいようにしか見てくれない。」
主人公の更紗の言葉が、蘇ります。
今までの自分像「私」を超越していく
なぜこんなことを思い出したかというと、ちょうど僕が今取り組んでいることの大きな一つであったからです。
自分を変えること。
これは何か勉強に励むとか、ビジネスに取り組むとか、小説を書くとか、そういった今後の自分に対するすべてに影響を及ぼすものです。
今の自分だから、今の自分の結果、現状がある。
それの結果を受け入れた上で、何に取り組むかではなく、もっと根本的な原因である自分自身を変えることを、今一生懸命精進しています。
もっと明るいほうがいいよ、と何度もアドバイスいただきます。
今日もいただきました。これは何回も言っていただいてます。
暗い人には人は集まりませんから、何かを創り出そう、何か人生を変えようと思うなら、明るい人間であるに越したことはないはずです。
「今までの私」という自分像をぶち壊していくのです。
目的は人生を豊かにすることですから、自分が変わるとか変わらないとか、受け入れられるか理解できるかどうかは二の次です。
ただ、結果を出している人の中にある「私」は、もっと変化できるし、変化していいはずだとと思っていただいているように感じています。
それが人生を豊かにする、結果を出すことにつながると。
僕も大学生の頃、母校の高校に野球を教えに行っていたときは、もっとこの選手打てるようになるな、と思って、彼らの既成概念をふっ飛ばしていろいろな練習方法やアドバイスをしたものでした。
同じように、今も自分が自分を変化させている。
今こそ、周りの人の中にある「私」を、大きく変えられるチャンスなのです。
私は単数ではない。
たくさんの人の中にあるいくつもの「私」があると自分で認識しつつ、常に新しい「私」を創り続けていきます。
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