江戸時代を楽しむ・八州廻り
時代劇の八州廻りは颯爽としていた。
なのに!
今度「地域史」で地域本に接してみたら、実像が仄見える
八州廻りはつらいよ?
その実態や如何
今度、地域史で「警察」関係を調べていたら、関東一円を一元的に取り締まる、何だか、大変そうなお役所が「八州廻り」と。その担い手が、足軽とか、武家社会では最下層とか、好きなように言われている!!!
しかも、人数がすごく少ない。
大捕り物で人数が足りなくて、すぐに人を増やしたくらい、人員不足。
その仕事も、大捕り物よりも、村をまわって、自衛組織を作ってもらうのを仕事にしていた節がある。
重犯罪、例えば強盗とか火付けは、火盗改め(鬼平犯科帳)が取り締まるのであって、八州廻りは【生活安全課】みたいな印象を受けた。
件の「大捕り物」とは
件の大捕り物も、「帯刀禁止令」に対する取り締まりで、地域の不良青少年・中年を『銃刀法不法所持』を理由にバサッと取り締まる体。取り締まられる側も、いつもなら何ともなく不良行為(それが商家からお金をせびったり、陰で賭博をしたりとけっこう悪い)をしていたところ、突然役人が連行したので、こう、歯向かってしまった・・・いつもなら、(法的根拠がなかったので)説諭ていどでおめこぼしだったらしい。それが、急の強面!
八州廻り側も、簡単に連行して説諭して家に帰す(農業に戻る)、と踏んでいたのに、思いのほかの抵抗だったみたいだ。
で、八州廻りのお仕事は
各村で議定書(取締に関するもの)を作らせて、連印をとる。
『寄場組合村』という!寄場って言ったら、江戸の喰い詰め浪人とか・・・無宿物を集めて労働とかさせて、更生させる施設。なんだけど、こっちは、「寄せる」の意味で使われていて、寄せるのは村。
「寄場組合村」の場合は、村を寄せて組合村という組織にするという意味。寺社領・私領・天領の境界を越えて、組合村単位で支配する思惑。
これは、明治になったら郡・市町村の基準(合併の嵐の中・・・)になっているみたいだ。
その時まで。
代官が村落からの訴えを聞いて、犯人を捕まえたら、江戸まで送って、江戸表の代官屋敷でさばいていた。あまり犯罪者がいなかったから済んだ処置。連行する事態、罰だったみたい。すごくお金がかかるから。江戸の・・・連行専用の宿屋に留め置いて、順番に調べるんだけどすごく時間がかかる。
犯人を捕まえたら、お白州(江戸)まで連れていかないで、寄場組合村大惣代を受けた庄屋の庭で「連行」とか、決めていい。
幕末の騒然とした感じが何となく伝わる‥‥
そう、八州廻りが発足したのは、江戸もだいぶ過ぎてから。
組合村に至っては、幕末のころだったんです。テレビを見てたとき、もっと前からあったんだと思っていた。
もうちょっと調べたこと
八州廻りの本質のお仕事について・・・ちょっと調べた。
『寄場組合村』作り系の法律が決まって、それをもって、八州廻りが各村をまわる。
「各村」といっても、名主さんのところ。
豪族みたいなところもあるし。元侍で農家をやっているとか。土豪であって100年前に領主に従って関が原へ行ったとか。平安時代以降、この地で農家(荘園崩れみたいな・・・)、そういった由緒のあるような家が地域のまとめをしていることが多いから、そういうところをまわる。
税金は、名主がまとめて「村請」、村の構成員にその持っている田の石高に比例して分配、集約して代官(旗本とかなら用人ということもある)に支払う(米を俵にして持っていくこと多し)。
そんなわけで、代官側に有力名主の名簿はあったのだろう。
村は、入会権や、水場の分配、祭り、冠婚葬祭、年貢の工面、飢饉に備える米蔵の管理、ほかにもあったかな・嫁とり婿取りもあるか、そうしたことで自治・共同体の性格を強めていて、受け皿になる態勢はあった。
で、そうしたお歴々を前に、説諭して、説明して、その村に合う議定書を作ってもらい、書面ができたら、組合村の構成メンバーが署名捺印して、違反したら×。
この議定書ができるまで、2~3年かかった。
全体うっすらと調べて、先生に聞いてもらって(ゼミの感じ)且つ、メンバーで検討したら、実は商業の統制もここがやっていたという。
江戸地廻り経済の確立で、市が自給自足の村を支える役割から、地元産品の集荷市の役割を果たすようになり、すごく稼ぐようになった。今までは、市に派遣する商人(塩や鍛冶)の上前を撥ねていたらよかったんだけど、農民自体が稼ぐようになった。これは税金をかける方法がない。それで、村の出入り口で通行料のような費用をとったりしていたみたいだ。
八州廻りの地位
八州廻りは、奉行所の、代官のその下。手代とか手付とか。
代官自体が、奉行所の中では下のほう。
それは、江戸幕府が軍事政権で、武官が優遇されたから(だそうだ)。関ケ原の合戦でも、食料調達や運搬などの事務方は、あまり高い地位をもらえなかった。
それに、軍事政権とは関係ないが、「江戸」幕府ということで、お膝元でのお役の方が喜ばれるし、出世もできる。
外での仕事(代官は、京都・奈良の幕府直轄領でもお仕事をする、近畿以外では「金山」「港」「もちろん貿易港=長崎」、何となくお金の匂いがする感じの・・・)が原則の代官、エキスパートであることも相まって、江戸の官僚の理解も薄い(らしい)。
<代官は、時代が下るほど世襲ではなくなる>
だけど、エキスパートぞろい、仕事師じゃなかったら勤まらないから(と、書いてあった)。有力な人の息子だからといってお役に付いても、税金があつまらない・飢饉なのになにもしない、では、すぐ首になったそう。
代々代官(橙代官とよばれた)は、江戸中期に入るころ、首になった。
結構、下からの抜擢があり、各地に散った。といっても、東北ぐらいなら、江戸に暮し、検地(といっても、田畑・地面の検地ではなく、秋の収穫期の立ち合い)のときだけ、幕府直轄領とかへ行く。
もちろん、関東の代官は、大代官以外は江戸住まいだったという。
さて、八州廻りはどうか。
代官の下、直属ではあっても、「手代」「手下」の中から選ばれ・・・足軽と云ったところ。
「手代・手下」は、課長・係長を飛ばして(下に飛ぶ( ;∀;))、主任クラスの給料なのだという。江戸の時代・・・身分は低い。
だが、村々をまわる、ということで、村の人は『幕府から来た』ということで、手厚いもてなし。だんだん増長して、駕籠を使ったり、土地のワルと連携して小遣い稼ぎをしたりしたらしい。
なわけで、時代下ると『手代は旗本から選ぼう』ということになるも、手下はどうしても必要で、イザコザはたえなかったらしい。
勤務場所と勤務実態
さて、八州廻り発足。
初手から主任クラスとはいえ新入社員、しかも、当初8名。
そして出張って行く八州は、武蔵・相模・下総・上総・上野・下野・安房・常陸。
当番4人が各地を回り、残り4人は江戸待機。事件が起れば走って行くし(馬使えるのかなぁ?)、自分が当番になれば、休まず村をまわらねばならない。
4人といっても、その下に働き手(荷物持ちとか、書類多いし)を数人連れて行くから、もう少し大きな団体で出発。
手分けして、担当の村へ入って行く。
一つの村に入って完結ではない、それぞれ、3~4村くらいで一まとまりになってもらい、そのグループをもう一段まとめて、『組合村』を構成させるのだ。だいたい、40から60カ村がまとまったという。
代官の下職さん(江戸暮らし)が出張って行くのだから、もちろん、道案内がいる。
その道案内は、裏社会に多少顔の利くものを使ったりして、八州廻りが悪に取り込まれる事態も。
火盗改めも巻き込んで大掛かりな疑獄騒ぎがあったというが、これはよくわからない。
やればやるほど疑問が出て来る「地域史」。なんだなんだ
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