【ヨガ話】自分の人生に本当に必要なもの・ことは何か(スワディヤーヤ)
ヨガ哲学で人生変わるかなシリーズ第9弾は「スワディヤーヤ」。ヨガには控えるべきこと=「ヤマ」と推奨されていること=「ニヤマ」があり、「スワディヤーヤ」はぜひおやんなさいと言われるニヤマの4つ目です。これ、私はヨガに出会う前からずっとやってきたことな気がしているので、ヨガのお墨付きがついて背中が押された感じ。なんのことやら、行ってみよう。
スワディヤーヤの定義
スヴァは「自己」、アディヤーヤは「学習」なので、直訳だと「自己学習」、つまり「自分を見つめ、自分に気づく」こと、となる。私は「自己探求」が一番しっくりくるかな。「内観」って書いてるひともいたな。
「読誦(どくじゅ)」と訳語がついていることがあるんだけど、これだけだとなんじゃらほいだと思っている。そもそもは聖典や経典などを読んで学ぶ(「誦」という字には「諳んじる」「暗記して読む」などの意味がある)ところから出てきた訳語らしい。この「聖典の学習」というのは、別に聖典の内容について知識的に詳しくなることがゴールではなくて、聖典を学びながら自己を深く見つめ、心身の癖や思い込み、無意識の悪習慣などに気づいて手放し、より自分に適した人生の選択をしていくところまでを目指しているのだそう。
この連載=スワディヤーヤ
それって、つまり、この連載そのものなのでは。ヨガ哲学を学び直すというのは、ただ辞書的な単語の意味を覚えることでも、文献を読んで知識学習するだけでもない。今回であれば「私にとってのスワディヤーヤ」を考え、「スワディヤーヤという観点における自分の現在地」と見つめている。これすなわち「自分が何に気づき、何を考え、どう感じて生きているのか」という内観そのものであり、スワディヤーヤなんである。
どのヤマ・ニヤマも至極当たり前に実践したいと思える考え方で、ヨガはon the mat=ヨガマットの上だけでなくoff the mat=マットの外にある圧倒的に広い世界、生活のあらゆるところにつながっているものなのだ。ヨガ哲学を知るまでは、ヨガには神秘的、超能力みたいなイメージがあったけど、今はもっと直接的で身近で、超自然的なこととは対極にあるようにすら思っている。非暴力とか正直とか、なんの神秘も不思議もなく普遍的に大切なことだから。
ちょっと脇に逸れるけど、世の中の悪意とか誹謗中傷、デマとかが私は心底嫌いで、そういうのが好きなひとなんかいないと思いたいけど、世界を見渡すと意外と自分は少数派なのではないかと不安になることがある。兵庫県知事選とか。アメリカ大統領選とか。ちょっと前だと東京都知事選とか。私はヨガ哲学が言っているようなことがcommon sense、つまり全人類の共通認識=常識になったら、世の中はもっと豊かで幸せになるような気がするんだけどなぁ。
外向・内向の話
意識のベクトルが自分の外側に向かうのか内側に向かうのか、を表す「志向性」の観点でいうと、私は自分を「内向」だと思っている。新卒で入社した会社の同期に「大森は自分のこと大好きだよな」と言われて自惚れみたいで反発したことがあったんだけど、興味の矢印が自分に向いていること自体は認めざるを得ないな、と当時も思ったし今も思う。好きかどうかっていうとちょっと違うような気はするけど。
翻って他人にはあんまり興味がない。ひとはひと、わたしはわたし。そのわりにヒトの目はすごく気になる。できれば「できるひと」認定されたいと思っている。でもこれも結局は他人に興味があるんじゃなくて、自分がどう見られているか、つまり自分が与えているイメージに興味があるだけで、どこまで行っても私は内向(introvertial)なんだなーと思ったりした。
もっと自分以外のひと・ものに興味を持った方がいいんじゃないか、もうちょっと外向であるべきなんじゃないか、と今まで思わなかったわけでもない。なんとなく「外向」の方が明るくて前向きで社会貢献しそうで、「内向」だと積極性や社会性に欠けるんじゃないか、なんて不安も覚えたり。でも、スワディヤーヤを考えていると、内向性があることで気づき、成長できることもあるんだな、と救われた気持ちになった。自分としては社会生活を営むには事足りるレベルの社会性とか社交性は持っている(と思いたい)ので、無理に外向を目指さなくてもいいんだな、と思うと生きやすい。ありがとう、スワディヤーヤ。
ヨガレッスンには「内観」の時間がある
ヨガの好きなところに「他人と比べなくていい」というところがある。となりのひとの方が脚が高く上がっているとか、みんなは息が続いているのに自分は途中で息切れしてしまったとか、そういう「他者と比べて上手か下手か」という観点は気にしなくていい。気にしなくていいどころか、それを気にしている暇がないほどに自分に集中する。今、自分はどう感じているのか。呼吸の入りやすさ、身体の安定感、温かさや鼓動の速さ、どこが伸びやすくて、どこに詰まりがあるのか、こころは穏やかなのかざわざわしているのか。「いま」「ここ」にある自分をただ見つめる内観の時間の連続である。目を閉じて、ときには耳も鼻も口もふさいで、外からの情報を遮断して自分に意識を向けていくと、やがて自分にとって何が大事で何は些末なことなのかがおのずと見えてくるように思う。
自分がレッスンを生徒として受けるとき以上に自分が講師側になるときにこの気づきを意識したら、自分の提供するヨガの時間がもっと心身の調和につながってくる予感がした。内観を促すような誘導の言葉はときどき口にしているけど、今はわりと限定的なポーズでしか使っていないように思う。こうやって行動変容のきっかけになって、実際に変わるところまでいければスワディヤーヤ達成、てなことなのだろう。
スワディヤーヤで残りの人生を考える
限りある人生を幸せに生きていくために、なにを選んでなにを手放すのかってものすごく大事なことだと思うんだけど、忙しかったり気になることがあったりするとつい自分が疎かになる。人生80年が平均なら私はもう折り返しているし、たとえもっと長く生きられたとしても健康寿命が延びるとは限らない。
今回のテーマを考えていたら、あぁやっぱり私はやりたいことがあるのにやっていない、やりたいことをやるために働いているというのははたして本当に腑に落ちているのか、という気持ちが膨らんできた。仕事は嫌いではない。大半のことはやりたくてやっている。やりたいことを続けるにも稼ぎが必要なこともわかっている。だけど。
最近、身体能力や思考力の低下を如実に感じてうろたえてしまう。週に1回バレエに通っているけど、少し前にできたことがどんどんできなくなっていく。残念だけど週1回ではもう現状維持はできなくて、身体が衰えるスピードの方が速いってことなのだろう。柔軟性も筋力もバランスもどれもこれもたるんできた。頭の回転や記憶力も40代に入ってがくんと落ちた。以前は思考よりも先に口が動いてしまう感覚があるくらいつるつると言葉が出ていたのに、最近はぴたっとはまる言葉がすんなり出てこない。会話に代名詞も増えた。まだ早いと思いたいけど緩やかに確実に衰えていて、いつかやろう、ということは思うようにはできなくなっていくのかもしれない。
この先の人生で一番若いのは今の自分、とはよく言ったもので、さぁ私は今日からどう生きていくのか。自分を見つめ、無意識の思考の癖に気づいたところで、具体的に何をするのか。そこまではスワディヤーヤなんだから、そこまで動き出して実践する。のだ。
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