表現の向かう先は何処
まず、そもそもの定義が曖昧だからなぁ。
何をもって「詩」とするのか、又は成立するのか。カテゴライズするのもされるのも、本来は可笑しい話なのかもしれないな。
批評者が一つの詩について評したり論じたりする事は、ある意味その書き手の外枠を決めてしまい、独自の色を喪失させてしまう行為にも成り兼ねない可能性があるのでは…?、などと思ったりもする。(予め、わたしは全くの素人です…)
自由であって良いはずの表現。それを挫くような(場合もある)評との関係は、果たして正解と言えるのか否か。(これは詩に限らず言える事だけれど。)
勿論、表現する為の技術をその関係から得られるであろうことは事実。書き手を成長させ、磨いてもくれるのだから、それは貴重で希少な機会だと言わざるを得ない。
だが、書き手のいちばんの目的と目標は果たして何だろうか。各々が様々な考えを持って書かれていることだろう。だから、この世に生まれていく詩や詩集の向かう先は異なっているはず。誰もが批評を望んで書いている訳ではないし、後世に語り継がれたいと考えている訳でもないと思う。
詩を書く行為自体は、まず第一に自己満足。己を満たしたくて、満たされたくて書く。書かなくても誰も困らないと解った上での、究極の自己満足と独り善がり、エゴによるものだ。
そこから生み出されていく詩は、先述の通り目的と目標が上塗りされたものであるし、書き手各々の異なる世界や表現、観点や視点などの文章となる。
それ故、「詩」が読者に重きを置かれ一括りにしてしまう、されてしまう、或いはカテゴライズされることに、多少なりの違和感を覚える。少なくともわたしは、認知されたいと思って書いている訳ではないし、詩人になりたいとも思っていない。わたしは自分の為に書いている。未だ知らない自分を知りたくて、見てみたくて書いている。常にそれが根底にある。
その延長線上にいる何処かの誰かの心に、もしもわたしの言葉が届くことがあったなら、それは予知していなかったよろこびとしてもたらされ、感謝と共に還ってくるだろう。
色々な詩があって良いし、色々な書き方、表現があって良い。
いつまでも、我が魂の行き先を見失わないでいたい。そう在りたいと願う。
五月二日
考えさせられる出来事と共に。