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「苦しみ」は自分が作っている
昨夜、お母さんが家に来た。
そして、玄関先に置いてあった沢山のサツマイモをみて、私に尋ねた。
「これ、どうしたんだ?」
「え?叔父さんがもってきてくれたよ」
亡くなったお父さんの弟、つまり私の叔父さんが、片道1時間かけてもってきてくれたのだ。
それを聞いたお母さんの顔色が変わった。
「なんだよお、こんなにもらっちゃって。ただもらっておくわけにはいかねえんだよ?
お前、ちゃんとお返ししないと。
父ちゃんはな、いつも倍以上に返してたんだよ」
お返しはちゃんとするよ、と思ったが、言うのをやめた。
お母さんの言いたいことを聞いてみようと思った。
「悪いなあ・・・気を遣ってくれてんだよなあ、可哀想だと思ってなあ。
だから俺は、父ちゃんがしんだ時に、縁を切ろうと思ったのに」
また、悲観ゾーンに入ってきてるなあ・・・。そう感じたが、何も言わなかった。
私は、この時、この流れに飲み込まれたくない、と感じていたんだろう。
お母さんのために、話を聞いてみようと黙っていたのが、
いつの間にか、悲観に飲み込まれたくないから黙っていよう、と目的がすり替わっていた。自分の心が侵食されるのを肌で感じての防衛本能だったな、と感じる。
今回の、お母さんを例に、
「サツマイモをもらった」ことから、「ネガティブな感情」が発動するまでの流れを紐解いてみようと思う。
まず、人が感情を感じたり、思考したり、それを元に行動するのには、このような流れがある。
※画像は、HSP繊細な気質を持つ人の例
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まず、今回は、「サツマイモをもらう」という出来事が起こり、
「お返しは、もらった分以上に返さないといけない」と言う思い込みがあり、
「お返しをしないと悪く思われる」と言う自動思考が走り、
「不安」感情が発生し、
「お返しをしないダメなやつと思われるのでは?」と思考し、
「気を遣う、自分を責める」と言う行動になり、
「申し訳ないことになった、私たちが可哀想だと思われている」と結果を導いた
発言となり、
「やっぱり、お父さんの兄弟と付き合いを続けていくのはつらい(お父さんを思い出してしまう辛さもある)」と強化された。
どうだろう?
こうして客観的に書くと、
お母さんの気持ちもわからなくもないが、偏っていることに気づく。
この、「偏り」こそが、「二元論」的発想、行動パターンであり、
「苦しみの原因」なのだ。
──だって、考えてもみて欲しい。
この一連の思考の中に、「叔父さん」は、はじめの贈り物をくれたこと以外で関与していた?
叔父さんは悪いことをしたのか?
──いや、していない。
そう、すべてはお母さんの世界だけで繰り広げていた、悲劇(妄想劇)なのだ。
厳しいことを言うが、そうである。
叔父さんは、「美味しいサツマイモを食べて、元気に幸せになってほしい」と思っての行動をしてくれたのに、
それを「受け取らない」どころか、悪者にまで仕立て上げてしまうような自己憐憫のストーリー。これを自分で描いてしまうのだ。
だから、思う。
【お母さん、生きづらかっただろうなあ・・・】
お母さんは、いつも一生懸命で、
お返しもきっちりしないと、ちゃんとやらないと、で生きてきたんだろう。
だから、それが健全に発動していれば、それはそれでとても良い模範的な人だが、
「⚪︎⚪︎しなければならない」でがんじがらめになると、
途端に苦しくなる。
自分を責める。
これを、60年以上やってきたのだ。
自分に、「思い込み」や「自動思考」があるなんて、
考えたこともないだろう。
「思い込み」は、「思い込み」って気づかないから、「思い込み」。
そして、この「思い込み」は、特に、狭いコミュニティで
濃い人間関係の中で、円滑な人間関係を長く続けるのには、「メリット」がありすぎた。
他者のメリット。
そして、自分が生きていくためのメリット。
自分の居場所を確保するための。
そこだけに注目しすぎると、自分の範疇以上のことをしようとして辛くなるのにも関わらず、「自分をよく見せたい」、「相手より良いものを渡さないと」、と思うようになる。
そして、「私も何か贈り物をしたら、見返りがあるのが当たり前」という思い込みにつながることもある。
等身大の自分を忘れて暴走すると、これは、「苦しみ」以外の何者でもなくなる。
だから、言いたい。
今回で言うならば、贈り物をもらったら、
「素直によろこぶ」
まずは、それだけでいいではないか。
受け取り、喜び、味わう。
ありがとう、の気持ちを伝える。
それで、次にいける。
満たされた健全な自分が、あちらに渡せるものはあるかな?
そう考えればいいだけのこと。
そうすれば、次に会うときまでに、アンテナが立って、
その方にぴったりな贈り物ができるだろう。
例えば、道の駅で、美味しそうな物を見つけたり。
物産展で、珍しい塩を見つけたり。
その時に、
「ああ、これを渡したら喜んでくれるかも♩」
と、自分もワクワクした気持ちになるだろう。
きっと、それでいいんだ。
無理に、自分を着飾らなくていい。
相手の好意は、あったかい愛として受け取り、
自分もまた、愛を渡せる自分であると信じることだ。
お母さんは、しっかりしているが故に、
自分のことを裁きがちだ。
言うほど悪人じゃないのに(笑)
うそうそ、むしろ善人だよ。
でも、それは、私が幼少期に思ってしまっていたお母さんへの思いが反映されてしまっていると思うから、
そこは、私自身の反省がもっと必要だ。
お母さんは、私をこの世に生み出してくれた恩人なのだから。
学を与えてくれた人なのだから。
今度は、私が学んできた、
こうした人生を俯瞰する視点を
渡せたらいいな。
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