いつだってはじめては(三)

 とりあえずは、とカウンターへ向かった。それまでレジに入っていた早番の人と交代する。早番は世代的にけっこう上の人たちが中心だけれど、若い人も幾人かいた。
 いきなりレジで客をさばけるわけはないため、指導係の後ろに立って、毎回の流れを見させてもらうことになった。背の高い高橋さんの背中側につく。
 いらっしゃいませ。お預かり致します。バーコードを読み取る音。二点で二千円、頂戴致します。では、五千円お預かり致します。少々お待ちくださいませ。三千円のお返しでございます。お待たせ致しました。ありがとうございました。またどうぞお越しくださいませ。
 新人の指導を任されるくらいだから、それなりに長く勤めているのだろう。すらすらと、淀みなく言葉が口をついて出る。商品を袋に入れる動作もスムーズ。
 それから何回か見ていたが、支払いには現金以外にもクレジットカード、図書カード、電子マネーなど複数のケースがあって、それらに瞬時に対応できなければならないようだ。機械の使い方も覚える必要がある。
「どう、そろそろレジに入ってみる?」
 高橋さんに軽い調子で言われ、躊躇ったのは束の間。はい、と答える自分がいた。
 一連の動作はなんとなく把握した。いつまでも見学に甘んじているわけには――というのも、隣の壇さんは、すでにレジに入って悪戦苦闘している。習うより、慣れよう。
 今日は落ち着いている日だと言っていた気がするけれど、雑誌を買いに来る人はけっこう多いように思う。たまに列ができて、大丈夫かと不安になる。これくらいで狼狽えていてはダメだということか。慣れる、かな。
 周囲を見渡す。ジャンルごとに棚が分かれている。最も場所を取っているのは女性誌。男性誌も同じくらい。ほか、実用やスポーツ、カルチャー、ホビー、ビジネス、ファイルマガジン、NHKテキストなどと掲げられている。そこになんというタイトルの雑誌が置いてあるかは、細かくて分からない。
 つい先ほどの夕礼を思い返す。連絡事項をいくつか伝えられたけど、正直ちんぷんかんぷんだった。メモ帳を用意していたのに、何を書いたらいいか分からない。いちいち訊いて確かめるわけにもいかない。
 肩をとんとん、と叩かれる。雑誌を持ったお客さんが正面近くまで来ていたことを、高橋さんに教えてられる。慌てて「いらっしゃいませ」を発する。はじめてのお客さんだ。
 雑誌を預かって、バーコードを読み取る。値段を伝えて、相手が財布からお金を出す間に商品を袋にしまう。
 お金を預かろうとしたら、図書カードを差し出された。五百円分のカード。少し足りない。
「ヘイヨウってできますか?」
 咄嗟のことで理解が追いつかない。ヘイヨウ――ようやく、「併用」に変換される。ほかの支払いと合わせてできるのか、ということか。
 なんとなく不安に感じて、高橋さんに目線をやった。意を察した高橋さんは、私ではなくお客さんに直接答えた。
「併用できますよ。先に図書カードからお引きしてよろしいですか?」
 はい、お願いします、と返ってきて、高橋さんは預かった図書カードを専用の機会に通して、レジにその額を打ち込む。差額を現金で預かって、会計が完了した。そこまでで、また元の位置に戻る。代わって私が前に一歩出、商品を渡した。
「ありがとうございました」
 深々とお辞儀をする。はじめての接客、終了。
「高橋さん、すみません。ありがとうございます」
「いや、」彼はぱたぱたと手を振る。「あれくらいでお礼なんかすることないよ」
 見た目は強面(こわもて)だけれど、とても優しい人だ。
 でも、次の言葉は本音だったのかもしれない。
「分からないのに適当にやられる方が、一番面倒くさいから」


 書店で働くイメージって、もっとのんびりしたものだと思っていた。場所柄かもしれないが、ここは百貨店みたいな慌しさだ。買いにくる客、特定のものを探している客、どこにあるかと訊かれても検索の仕方はまだ習っていないため、メモに控えて、ベテランに託す。
 だけど、楽しいと感じることができる理由を挙げるなら、どんな雑誌が売れていくのか分かる、という点。こんな人がこんな内容のものを買っていくのか。新鮮な発見。もちろん、雑誌の表紙を確認する余裕がないときも多々。お客さんの前で表紙をじっと見つめるわけにもしかない。
 終わりが見えてきた。あと少しで閉店。果てしないような気がしていたけれど、終わりを迎えるとなると確かな時間の経過を意識する。
「この雑誌って、次はいつ発売だっけ?」
 白髪交じりのおじいさんに、突然そう言われた。まあ、接客はいつだって突然だけど。
 雑誌を直接持ってきてくれたからそれを拝借し、高橋さんのもとへ持っていった。高橋さんは表紙に目を留めただけで「来週の金曜日」と即答した。
 それを伝えにいくと、おじいさんは満足したように頷きながら笑んで、パタパタと遠ざかる。ビーチサンダルを履いていた。
「あのおじいさん、いつも店に来るんだよ。何も買わないくせに」
 高橋さんが隣で眉を顰めている。そうなんですか、と相槌を打つと、それに若い女の子に適当なことを訊いて、帰ってくんだ、とさらに教えてくれる。
「今度からはそっけなくあしらっちゃっていいよ。優しくするとつけ上がるから」
 お客さんに冷たくはできないから冗談だろうけれど、しかし、そう言いたくなるほどのこれまでがあったのだろうな。
 いろんな人が書店を訪れる。ほんとに、いろんな人が。

          *

 雨の日は寂しい。一人で部屋に籠ってしまうと、余計にそう。世界の喧騒から隔絶されて、得も言われぬ孤独の中に放り出される。世界で起こっていることがこちらへ何も及ぼさない。こちらで起こったことを、外の誰かに知ってもらえない。
 この感情は本を読んでいても紛らせない。だから、雨の日は学校があって、みんなで授業を受けている方がまし。
 暑くなってきたかな、と考えていたら、また気温が落ち着いてきた。梅雨入り。ここのところ雨ばかりで、世界は三割増しで静か。登下校でいつもお目にかかる猫さんは大丈夫かしら。
 雨って悲しいのかもしれない。小説の中でも、雨は胸を塞ぐ瞬間に降る気がする。あの水滴は、誰かの内側に留めきれなかった涙が溢れてきたものなのかな。
 ベッドに寄りかかって、伸びをする。くっ、と変な声が出る。普段、ちゃんと編んでいる長い髪は無造作に広がっている。
 携帯が震えた。わたしたちを繋ぐ一筋の糸。世界からわたしへのアプローチ。いつもは見るのを後回しにしてしまうのを、このときはすぐに手に取る。外の世界がわたしの掌の上に。
『栞、雨が弱くなってきたし、お散歩しよう。京も一緒だよ。』
 桜からだった。なんとも風情のあることだ。でも、心が華やぐ。雨の寂しさも、少しは気にならなくなる。
 立ち上がって、クロゼットからワンピースを一つ引っ張り出す。髪を結ってお出かけしよう。

 さっきまでの雨があっという間に晴れたのは、桜が太陽だから。彼女の行く先々には、常に光が満ちている。
 学校で三人は集合し、桜が先導する形でてくてくと歩いた。そういえば、猫さんは見かけなかった。誰かに飼われているようだから、風邪を引いてはいないだろう。そうだといいけど。
「どこへ行くの」
 京が尋ねると、「考えてなかった」とのんきな返事が。
「でも、なんとなく分かったの。二人とも、持て余しているのではないかな、って」
「何を?」
「時間を」
 桜の直感は鋭かったことになる。京が家でどんな過ごし方をしていたのか知らないが、簡単に家からやって来たことを踏まえると、わたしと同じようにしていたと推測できる。
「雨、こんなあっさり止むとはね」
 京が両手をかざして、言う。彼女だけ水色の傘を持ってきていた。中学生が使うにしては大人びているけど、彼女によく似合う。
「わたしは、桜が雨雲を追い払ったんだと思うよ」
「ああ、そうかもね」
 京も同調してくれた。
「何よ、それ。そんなすごいことできるわけないでしょ」
「それにしても、お散歩なんて。素敵な発想」
「ほんとに」
「わたし、歩くのがけっこう好きなの。考えがまとまるときもあるし――まあ、じっとしていられないだけかな」
 一行は川沿いに辿り着く。流れは速さを増していたけれど、氾濫する危険性はなさそう。遠くから眺める。
 なんとなく、黙ってしまった。都会の川だから、そんなに心を奪われることはない。だけど、ずっと歩いてきて、気の迷いを鎮めるには十分だった。ぼんやりと見つめて、わたしたちは景色の中に溶け込む。
 沈黙を破ったのは桜の歌声だった。

  すみれの花咲くころ はじめて君を知りぬ

  君を想い日ごと夜ごと 悩みしあの日のころ

 桜は歌が上手かった。透き通っていて、まっすぐで。
「すみれの花咲くころ、」桜がわたしと京の目を覗き込むようにする。「はじめて君たちを知りぬ」
 続きはなかった。くるりと背中を向けて、ハミングするだけ。
 想ってくれているのだろうか。わたしのこと。京のこと。そんな風に考えたのはほんの一瞬。
 世界には、わざわざ確認しなくてもいいことがたくさんある。

          *

 前日が初出勤でへとへとだったけど、今日もバイトに行かなければならない。
 それでも心なしか、昨日よりは気が重くなかった。まだ慣れたとは到底言えなくても、どんな感じでやっていくのか知れたのは大きい。それに、今日はどんな雑誌が売れるのかと思うとワクワクする。
 昨日と同様、バックヤードで待っている。今日の社員さんは小早川さんではなく、男性の内田さん、という人だった。眼鏡をかけていて、西洋人みたいな澄んだ瞳をしている。バイトには敬語を使わず、どこかくだけた印象。
「どう、昨日でだいぶ慣れた?」
 高橋さんが声をかけてくれた。指導係はなるべくその新人とシフトがかぶっている人がなるようで、彼は今日もまた出勤日。
「そう、ですね。でも、まだまだです」
「そっか。まあ、ほんとに、やっていくうちに慣れるとしか言えないんだけどねー。でも、田島さんは物覚えがいいし、すぐに一人前になると思うよ」
「いやいや、そんなことは……」
 刹那、バックヤードの扉の開く音。昨日はこのときに壇さんが現れた。だけど、彼は休みのはず。では、もう一人の新人さんかな。
 長い、三つ編みが揺れる。緊張からか顔を俯けていたが、私と目が合うとその表情に驚きがよぎる。
 すぐに話せるだろうと思って、確認していかなった。でもまさか、栞のバイト先もここだったなんて、予想すらしなかった。

 小早川さんの言っていたとおり、昨日の忙しさはそれほどでもなかったと実感する。お客さんが次から次へと湧いてくる。一人ずつ対応していくけど、自分自身、まだリズムを掴めていないな、というのは正直なところ。それでも、少しずつ自然な笑顔を見せられるようになったのではないかな。
 栞には壇さんと同様、太めの和宮さんが指導に当たっている。和宮さんは遅番の中で一番の古株で、新人二人を同時に任されるくらい頼りにされている。
 書店は正社員の数を限っているから、売り場を回していくにはバイトに依存せざるを得ない。覚えることがたくさんあることを踏まえると、できるだけ長く続けてほしい、というのが店側の本音。その中から、和宮さんのようにバイトを統率できる人材が現れれば儲けもの。
 社員の内田さんは和宮さんのことを「ボス」と呼んでいた。それはふざけ半分みたいなところがあるのだけど、彼女を認めている証左だろう。
「東海林さん、髪長いね。昔からずっと切ってないとか?」
 売り場が少し落ち着きつつあった。和宮さんが栞に話しかけている。
「中学生くらいからこの長さですけど、小まめに切るようにはしているんです。そうすると、毛先がまっすぐ伸びてくれるんですよ」
 栞の三つ編みは目立つ。彼女のあどけない顔だと似合うし、かわいらしいからいい。でも、いつかやめる日が来るのだろうか――やっぱり、私は栞に、いつまでも髪型を変えてほしくないと強く望んでいる。
 今日は一人でレジに入っている。もう大丈夫だろうと判断されたのは嬉しいものか、かえって不安か。高橋さんは別のレジに入っている。この書店には和宮さんの少し後に入ったそうだが、彼の特徴はその仕事の速さ。会計をテキパキとこなし、売り場に掛かってくる電話にもすばやく出る。和宮さんがどっしり構えた印象がある一方で、高橋さんは戦でいうなら先鋒。
 そんな彼の視線をときどき感じる。変な意味ではなく、何か対応しきれない事態が起きたらすぐに駆けつけるぞ、という目配り。安心させてあげたいな、そう思う。できないことはまだまだ多い。

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