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自己理解とリフレーム

こんにちは!りょーさんです。

前回は自己理解について書いてみました。
読んで字の如く「自分を理解すること」なのですが、完全に客観的に自分を理解をすることはできません。「バイアス」がかかる。
ネガティブなバイアスがかかりすぎると、自分に対してマイナスの理解をすることになります。
今日は自己理解の一つの視点として「リフレーム」をいう概念をお伝えしつつ、子どもたちと関わるときに必要な視点にお誘いしたいと思います。


母のたったひと言が、、、


クラス替えや転校があるたびに、学校に行きたくなくなる。
自分からは話しかけられず、誰かが声をかけてくれるのを待つ。
声をかけられてもなんともうまく答えられない感じ。
食欲はなくなり、夜は「朝よ来てくれるな」と願い、何度も起きては「まだ朝じゃない、、、」ってちょっとだけホッとする。

怖いものが苦手で、「死」を連想させるようなテレビはちょっと怖くてみられない。口が悪い友達の「死ね」って言葉だけで泣いてしまう。

僕はそんな子どもでした。なんというか、、、ちょっと弱っちい感じです。

さて、そんな僕を僕はどういうふうに理解したら良かったんだろう?
「ちょっとした変化に弱く、新たしい環境に馴染めないダメなやつ」
「臆病で、すぐ泣いてしまう弱っちいやつ」
そのように自分を認識することはできます。

そんな僕に、母が言ってくれたのは、「あなたは感受性が豊かなんだよ」ってことでした。
いつどこでどんな状況でそんなことを言ったのか、あるいは自分の幻想や思い込みなのか、もはやわからないんだけど、確かに母からそのようなことを言われた記憶があります。

「そっか、自分、感受性が豊かなんだ、、、」

なんとなくそこから自分で自分を受け入れられた感じがあります。
思春期に入って、自分なりに本や漫画、音楽などのサブカルチャーの世界を探って、自分が受け取りたい感じ取りたいものを探すようになりました。自分の感受性を信じている感じです。
そしてそこからたくさんの救いや気づき、豊かさを得ました。

「感受性が豊か」 そう自分を理解することで、かけがえのないものを得られた感じがします。


使われる言葉で僕たちは世界を認識する


僕たちは自分の使う言葉、そして他人から得る言葉、で生きている世界を認識します。
ネガティブな言葉に溢れていたらネガティブな世界を生きることになるし、管理や制限に溢れる言葉ばかりだったら、コントロールを願う言葉と環境に満たされることになります。
「言葉が自分の世界を作ってしまう」っていう考え方です。この考えが全て正しいと言いたいわけではなくて、そういった側面も確かにあると僕は思っています。

周囲の大人たちの子どもにかける言葉が、「こんなこともできないの?」「あなたは人よりできないんだからもっと頑張りなさい」「あなたはいつも忘れる」みたいな言葉に溢れていたら?
子どもは自分をそのようなものとして認識します。自分は「いつも」「できない」
他人が使っていた言葉が自分を叩く言葉にすり替わっていきます。

これは将来的に「自分で自分を痛めつけること」につながっていきます。

たしかに「できないこともある」のかもしれない。「平均的な人よりできないこともある」かもしれない。「誰かと比べて忘れ物が多い」のかもしれない。

でもそれは本当なのでしょうか?

リフレームという技術


「リフレーム」という視点・技術があります。
「思考の枠組みを設定し直す」みたいなイメージです。同じ事象でもメガネの掛け方次第で、見え方変わるよね?みたいな。

誰かが「こんなんこともできない」と言っている時、本当は「できているところがたくさんある」のです。
誰かが「人よりできない」と言っている時、本当は「人よりできる側面」があるかもしれないのです。あるいは絶対評価に視点を切り替えたら「前よりできるようになっている」かもしれない。
誰かが「いつも忘れる」と言っている時、本当は「忘れていない時の方が多い」かもしれないのです。
できていないところを見るのではなく、「できていること」や「できている時」を見るというのは一つのリフレームです。

もう一つ、冒頭の事例のようなリフレームもあります。
母は「自分は弱い」というフレームを「感受性が豊か」とリフレームしてくれました。
ネガティブに見えることもポジティブに言い換えちゃう。
これ、ちょっと言い方変えると「なんとでも言えちゃう」ってことです。
で、「なんとでも言えちゃうなら、良い方に言っちゃえ」っていうね、なんと素敵な視点でしょう!

「落ち着きがない」は「多動力がある」「いろんなことに興味がある」かもしれない。
「こだわりが強い」は「好きなことを徹底して楽しめる」かもしれない。
「すぐ泣く」は「適切に感情を出せる」かもしれないです。
なんとでも言えちゃいますね。


そこに溢れる言葉の質感から変えていく


子どものことをすぐ変えることはできません。そもそも子どもはコントロールでkないことが多いし、本来的にはしちゃいけないことです。

でも、子どもの周りにある言葉を変えていく、ことはできます。
先ほど言ったように、人は周りに溢れている言葉によって世界を認識していきます。

もしかしたら、その言葉が、僕のように人生に大きな変化を与えてくれるものになることだってあるかもしれない、のです。


最後まで読んでいただきありがとうございました。

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