自然教育が、地方創生に繋がるかもしれない。
自然に親しむ教育について、少し考えてみたい。私は学生時代に、子どもたちが身近な自然に触れ合う教育について研究をしてきた。そのことについて振り返りつつ、自然に親しむ教育が地方創生に繋がる可能性について考察していきたい。
幼少期の経験が、一生記憶に残る
自然との想い出というのは、不思議と人の心に残るものだ。特に、幼少期から小学校低学年のうちに、自然と親しむ体験をさせておくことで、それが原体験となり、身近な自然に対する興味・関心の育成につながる可能性があるのだという(「理科学習の基盤としての原体験の教育的意義」小林ほか、1992)。
確かに、私の経験でも、幼少期に自然に親しんだ記憶というのは、大人になればなるほど、自然から離れれば離れるほど、鮮明に想い出されるように思うのだ。
幼少期に、自然に親しむ遊びを
私は、すぐそばに山や川があり、イタチやキジが住むような環境で育った。秋になると、学校から熊鈴が配布されるくらいの田舎だった。小学生の頃は、川で魚を捕まえたり、あぜ道で蛇を捕まえたり、原始的な遊びをしていた。今も普段から自然に囲まれているので、あまり自然を恋しく思わないのだが、都会に遊びに行くと、二日もすればもう十分かな、という気になる。山や田んぼが近くにあって、人が少ない広々した場所でないと、何だか落ち着かないのだ。反対に、生まれも育ちも東京の友人は、高いビルに囲まれて、人がたくさんいる方が落ち着くらしい。
私の住む県の中でも、そこそこ街中で生まれ育った人も、もちろんいる。私がよく話す人は、そういった少し街中で育った。そこで育つ子どもは、川で遊んだり、蛇を捕まえたりするようなことは流石にしないらしい。それでも彼は、親からボーイスカウトなどで自然に親しむきっかけを与えてもらいながら育ったという。都会へ行った今でもずっと、海でカヌーをしたり、山を登ったりした経験が忘れられず、いつかはUターンしたいと考えるきっかけになっているらしい。
都会の人も、地方に来るきっかけに
私は、カフェで人の話を盗み聞きするのが好きだ。あまり良い趣味ではないのは承知だが、全く知らない人の人生とか考え方とか、いろんなことが分かって楽しい。そのカフェは、県内の限界集落にあった。
カフェで近くに座っていた若い女性は、関西の都市部からその限界集落へ引っ越してきたらしかった。その理由は、子どもの頃に、祖父母のいるその土地へ、夏休みのたびに遊びに来ていたためだったらしい。今、祖父母は他界してしまったのだが、それでも小さい頃に自然と触れ合った経験が忘れられず、その限界集落に引っ越してきたそうだ。仕事がたくさんあるわけではないが、その土地での暮らしが気に入っているようだった。
生まれ育った場所でも、ボーイスカウトなどの習い事的なことでも、帰省でも、何かしらの形で自然に関わること、地域に関わることが、地方への愛着に繋がるのかもしれないと思う。
もっと手軽に、自然教育を
生まれ育った場所だとか、祖父母の家がたまたま自然豊かな環境である可能性は、そんなに高くない。だからこそ、自然教育が大切なのだろうと思う。自然教育というと、山に宿泊したりすることが思い浮かぶのかもしれないが、もっと手軽で、学校教育の中にも組み込める可能性があるのではないだろうか。
そう思って始めたのが、学生時代に取り組んだ、海の砂を使った学習プログラムの開発・実践だった。ボトルの中に県内の色々な箇所から採取してきた海の砂を詰め込んで、小さな地層を作っていくもので、幼稚園児から小学校高学年まで楽しめる内容となっている。県内の海の砂は、黒っぽいものから白っぽいもの、緑がかったものまであり、さらには小さな貝殻が入っているものや、キラキラと光る砂など、とても多くの種類がある。顕微鏡で観察する活動を取り入れたり、県内のどの箇所で採取したものか、砂浜の様子などを見せることで、直接その場に行けなくても、自然に親しめるような工夫をした。
100人を超える児童に実践をした結果、多くの児童から楽しかった、またやりたい、というような感想をもらった。また、実際にその砂浜に行って確かめてみたい、自分もたくさんの砂を集めてみたい、という自然に親しむ意欲の向上が見られた。
自然教育が持つ、地方創生の可能性
田舎の子が都会へ関心を持つきっかけは多くあっても、その反対は意外と多くない。自然教育を通して、都会の子が田舎に関心を抱くきっかけになったり、田舎の子がさらに自分の土地に愛着を持つきっかけにつながれば良いなと思う。そして、カフェの若い女性のように定住する人や、定住までは行かずとも、何かしらの形で関わってくれる人、ボーイスカウトをしていた彼のように一度都会へ出てもUターンしたいと考える人が増えれば、微力ながらも、地方創生の原動力となるのではないだろうか。