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アフターコロナのデジタル教育を思考する。

現在、デジタルはごく自然に10代の生活に馴染んでいる。

朝起きたら、スマホを開いてSNSを一通りチェック。学校ではタブレットが当たり前のように使われ、休み時間には推しのVtuberの話題で盛り上がる。放課後は、友だちとTikTokの動画をアップロードするのが日課。

数年前、「学業に支障が出る」とか言って学校に持ち込み禁止だったデジタルは、今や子どもたちの学びを支える「学業に欠かせない」ツールとなった。

世の中のデジタル化を大きく加速させたのは、紛れもなく新型コロナの流行だろう。コロナ禍前に10代だった大人たちと、コロナ禍以降に10代を過ごす若者たちとでは、デジタルに対する親密度が全く違う。また、この数年で社会が人々に求める価値観も変わっている。

大人たちにとってのデジタルは、娯楽や便利を提供してくれる「道具」だ。一方、若者たちにとってのデジタルは、「身体や思考の一部」と表現しても過言ではない。

だから、デジタルを取り巻く教育も、コロナ禍前の受け売りではいけないとわたしは思う。今日は、そんなアフターコロナのデジタル教育について考えていきたい。


デジタル教育とは

まず、認識合わせのために整理しておくと、「プログラミング教育」とはプログラミング技能そのものだったり、プログラミング的思考を獲得するためのものを指す。「ICT教育」は、パソコンや電子黒板といったICT機器やインターネットなどを活用した教育のことだ。

そして、タイトルにもある「デジタル教育」は、プログラミングだけではい、デジタルテクノロジー全般に関わる教育を指す。デバイスを用いたデザイン制作や動画編集、音楽制作やドローンなどもこれにあたる。

わたしがデジタル教育について考えるようになったきっかけは、実を言うとこのnoteだった。

プログラミング教育とICT教育の違いすら理解していなかった当時の記事に、予想以上にいいねやコメントが集まり、ちょっとした責任すら感じてしまった。それがしばらくnoteから距離を取るようになったきっかけでもあるのだが、その代わり実生活では真剣にプログラミング教育やICT教育、そしてデジタル教育に向き合い始めた。

小児科のクリニックが運営する放課後デイサービスで、ADHD・自閉スペクトラム症などの発達障害児を対象にICTを用いた療育に取り組み始めたり、自身で幼児〜中学生を対象にしたプログラミング教室を開業したりした。そして現在、10代が無償で利用できるテクノロジー施設「まぜテクネ」の運営も行なっている。

そんな3年間の軌跡の中で、現在わたしが提供しているのは、プログラミングだけではない様々なテクノロジーを学んだり、それを用いて自己表現したりする「デジタル教育」だ。

療育とデジタル

わたしが、プログラミングだけではなくテクノロジー全般を教えるようになったのは、小児科のICT療育がきっかけだった。

「タイピングやプログラミングなどのテクノロジー技能を習得することで、その子の苦手を和らげ自己肯定感の向上を目指す」ということを目標にスタートしたICT療育で、わたしは当時小学6年生だったある男の子を担当した。彼は初め、何に対しても無気力であったのだが、プログラミングに対しては強い関心を示した。

彼が取り組んでいたのは、プログラミングと聞いて多くの人が想像するような、黒い画面に大量の英語がつらつらと並んでいる「テキストプログラミング」ではなく、様々な命令を出せるブロックを組み合わせてゲームをつくる、「ビジュアルプログラミング」だった。簡単にいえば、文字の入力ができない子どもでも簡単にプログラミングできるツールだ。

彼は、ビジュアルプログラミングの中でも最もメジャーな「スクラッチ」と呼ばれるウェブアプリを使い、様々なゲームを作っていった。初めは友だちを作るのが苦手だった彼だったが、同じICT療育に通う子どもたちともゲームを通してコミュニケーションを取るようになった。そして中学生になったある日、もっと本格的なプログラミングをやってみたいとわたしに相談してきた。

プログラミングを本格的に学ぶとなると、ブロックをつなぎ合わせていく「ビジュアルプログラミング」から、テキストでコードを入力していく「テキストプログラミング」を学ぶ必要がある。わたしはこの「ビジュアルプログラミング」から「テキストプログラミング」への移行に大きな壁を感じた。

彼は、ADHDとASD(自閉スペクトラム症)という発達障害だけでなく、ディスレクシア(識字障害)という発達障害をもっていた。文字の認識が苦手な彼にとって、文字入力で命令を出していき、一文字でも間違えればエラーが出てしまうテキストプログラミングは、ビジュアルプログラミングから一転して苦手な分野になってしまうのだ。

だからと言って、ずっとビジュアルプログラミングを極め続けて、彼の自己肯定感が上がるとは言い難かった。彼は賢い。ビジュアルプログラミングをやり続けても、それを将来に繋げていくことは難しいだろうと中学生ながらに認識していた。

そんな時、彼は3D制作に出会った。近隣の大学教授が、研究室で使わなくなった3Dプリンターを寄付してくれたのがきっかけだった。彼は実際の現場でも使われる高度なアプリを用いてモデリングし、さまざまな立体を制作した。一回でうまくいかないときは、何度も何度も微調整しながら制作に取り組み続けた。彼が作った立体作品の数々は、スタッフや子どもだけでなく、3Dプリンターを寄付してくれた大学教授からも称賛された。中学3年生になった彼は現在、情報系の高校合格に向けて受験勉強に励んでいる。

すべての子に得意なデジタルがある

彼は、3D制作で自己肯定感を向上させ、将来の目標をつくることができた。そしてこの経験が、わたしがプログラミングだけではないテクノロジー全般を教えるようになったきっかけだ。

彼のように識字が苦手な子もいれば、論理的思考そのものが苦手な子どももいる。「こうなって、こうなって、こうなる」と頭で組み立てられる思考の工数には、個人差があるのだ。そういった論理的な思考が苦手な子でも、イラストを描いたりデザインしたりするのが得意な子もいる。図形操作や空間認知が得意な場合もある。

だから、テクノロジーを学ぼうとするとき、必ずしもプログラミングにこだわる必要はないと思うのだ。「プログラミング教育」という言葉を目にする機会が増え、保護者や教育関係者の意識の高まりも見られることは良いことだが、少しプログラミングにこだわりすぎてはいないだろうか。

実際のゲームを作るにしても、プログラマーがコーディングをする工程の前に、イラストレーターがキャラクターを制作し、デザイナーがユーザーが使いやすい配置などを考えてデザインする。CGを作る人も必要だし、動画を作る人も必要だろう。プログラミングだけが、将来につながるテクノロジーではないのだ。

すべての10代が、自分の関心ある分野や得意な分野でデジタルを使う世界線がそこに来ている。すべての10代が、自分の好きなことをデジタルを用いて取り組めるようになるはずだ。友だちと放課後に好きな遊びや会話をしたり、関心のある分野の高校や職業を選んだりするように、デジタルがそこにあると良い。

自由に表現しづらい社会の中で

そして、わたしがデジタル教育をしているもう一つの理由は、デジタルを用いれば、自己表現をより自由にできると考えているからだ。

現在、実社会の中で自分の想いを自由に表現することが難しくなっている。社会性やコンプライアンスが重視され、世間が求める「ホワイトらしさ」から逸れたら、コミュニティから外されてしまう。

そんな雰囲気が漂う現代では、学校で自分の想いを表現したり、他の人と違う考えを表明したりすることをしなくなる10代も増えているだろうか。周りとなんとなく雰囲気を合わせないと、学校というコミュニティの中から外されてしまうのだから。その外され方は、かつてのようなイジメではなく、表面上はなんとも穏やかで、加害者がいないような形になっているに違いない。

そんな社会に堅苦しさや生きづらさを感じてしまった時、10代にとってデジタルが、実社会からほんの少し放たれる自己表現の居場所であればと思う。

10代のテクノロジー施設「まぜテクネ」に通うとある女の子の保護者が、先日わたしにこんなメッセージを送ってくれた。

「会話をあまりしたがらず、外にもあまり出たがらない娘が、この居場所には行きたいと自ら言いました。今日iPadでイラストを描いている時、とても楽しそうに見えて嬉しかったです。周りからは楽しそうに見えていないかもしれないけど、今日の娘は親として、とても生き生きして見えたんです。」

おわりに

わたしはデジタル教育で、「こんなこともできるよ」とか「あんな面白いこともあるよ」ということを伝えていきたい。すべての10代が、何かしらの「好き」や「得意」をデジタルの中で見出し、それを将来につなげていくことができればと考えている。

そして、デジタルを用いた彼らの表現に対し、想いや意志を確かに感じ取ったことを伝えたい。それはおそらく実社会での表現よりも、彼らの価値観を正直に表しているだろう。

すべての10代が自分の好きなものや得意なことを見つけ、自己表現できるようになる。これこそが、わたしがデジタル教育で目指したいものだ。

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