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慈しみに誘われて

読書感想文 『十二国記 風の海 迷宮の岸』小野不由美

本は、特に小説は、私たちが経験したことのないことを経験させ、知らない場所に連れていき、思いがけない感情を呼び起こさせる。それでは現実は陳腐なのかと言えば全くそうではなく、文字として私たちの前に現れた新しい世界を頭の中で構築していくとき、私たちがどのようなこと見聞きし、経てきたのかが、その世界を明瞭にしリアルにしていく。2年ほど前に『十二国記』を愛する友人と台湾の故宮博物院を訪れた際に、彼女が最も興奮した様子になったのは、玉でできた白菜や角煮を見つけたときではなく、清代の家具の展示を見たときだった。彼女は楽しそうに歩き回り、「ここに陽子が座っている」「景麒はここで陽子を見ている」とはしゃいだ。小説と現実が混ざり合い、現実が彼女の『十二国記』の世界を堅牢なものにしていく瞬間だった。

私が『十二国記』読み始めたころは、講談社X文庫ホワイトハートから刊行されており、いわゆるライトノベルに分類されていたのだが、当時からライトノベルというにはいささか重厚でハードな路線は異彩を放っていた。間もなく、読者層の拡大に伴い、講談社文庫に移動した。私の記憶によれば、ライトノベルから一般文庫に移動した例はあまりなく、そういう意味では有川浩や桜庭一樹に先んじた形なのだと思う。

『十二国記』は分類するならばハイ・ファンタジーである。日本や中国があるこちらの世界となんらかの力で隔てられた別の世界。衣服やデザインは昔の中国らしい雰囲気を持ちながら、こちらの世界とは全く違う理で流れる世界がある。この世界には十二の国があり、妖魔が跋扈し、仙人がいる。それぞれの国には王がいるが、王は血筋ではなく天命によって定められ、その王を見出すのが麒麟と呼ばれる神獣である。『十二国記』はあらゆる人物の視点でこの世界を描く。時に王、時に麒麟、時に王の臣下、時に追放された王の家族として。それぞれの苦悩は逃げれられない徹底した苦悩であり、ハイ・ファンタジーと分類はしたが本質は人間とは何かを問うものである。そこにこの世界の理が密接に絡み、エンターテイメントとしてだけでなく、苦悩の元凶としても機能していく。

『風の海 迷宮の岸』は十二ある国のうちの戴国を舞台に、戴国の王を見つけなくてはならなくなった若き麒麟、泰麒の物語である。泰麒は泰王を見つけなくてはならない。ところがこの麒麟、こちらの世界とあちらの世界をつなぐ災禍「触」に見舞われて10年の間こちらの世界の理から外れてしまっている。その結果、麒麟として随分と未熟で幼い。泰麒は果たして泰王を見つけることができるのか、という物語である。

長く読んでいる本というのは、その読むときの精神や状況、年齢によって感じ方が変わりそれが楽しく、切ない。台湾から帰って読んだ『十二国記』はそれまで以上に強化されたイメージの中で進んでいくから、より迫真に迫ってくる。こういうとき、歳は取るものだと思うし、お財布は薄くなっても経験は積むべきだなぁ、としみじみする。

中高生のときに初めて読んだときの記憶は薄れているが、未熟な泰麒に対するなんとも言えない苛立ちがあったように思う。彼には物語の主人公らしからぬ弱さがある。(そして、もちろん、強さがある)『指輪物語』で無理矢理言えば、サムのいないフロドがずっと迷い続けているようなものであるから、ビルボのような闊達さを期待してしまっていたのだと思う。もちろん、泰麒がこの物語に至る背景を考えれば、泰麒の未熟さや弱さは必然のものであり、ここで無双の力を発揮してしまえば物語にならないしなっても駄作だ。

台湾から帰ってすぐ読んだ時はそのイメージの鮮烈さに驚いたわけだけれど、最近読み直して思いがけず感じたのは、泰麒を待ちわび世話をする女怪と女仙に対する圧倒的な感情移入だった。甥が生まれたからだろうか。友人の子と戯れたからだろうか。待ちに待った子を慈しめず、ようやく顔を見えた瞬間の喜びと安堵。何に替えても守らなくてはという欲。成長していく姿への哀愁。ああ、完全に大人側になってしまったなぁ、とため息が出てしまう。

泰麒は『魔性の子』や『白銀の墟 玄の月』で描かれるように、この世界で最も過酷な経験をする子である。読みたい、けど辛い。そう思いながら手を伸ばす。幼少期にあった初めて会うものへの興奮は、もうなかなかない。ただ、大人だからこそある読書体験がある。これだから、捲るのをやめられない。

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