「沈黙に耐えられない僕たちは」スマホを手放した生活の中で
スマホを捨てた。
というのは大げさな言い回しで、
正確に言えば、
1日2時間しかスマホを使わないと決めた。
もっと詳細に書くとすれば、朝昼夜には連絡を返し、アカウントが死んでしまう可能性を避けるため、SNSで1投稿を済ませる。
NETFLIXを観ることもあるが、
そういう場合は、PCを使って観るようにしている。
要するに、必要最低限の作業をする以外には、スマホを触らないという生活に入ってみたのだ。
昨日がその初日で、今日が2日目。
ちなみに、この記事はPCで書いている。
たった二日の間にもいろいろな心の葛藤や苦労がある。
その最たるものは、ヒマである。
スマホがないと、おおいにヒマなのだ。
どうしても、時間を持て余してしまう瞬間が大量発生してしまう。
ちょっとした待ち時間や移動時間。
一仕事を終えた後の休憩時間や寝る前、一日の終わりのご褒美時間。
これらの時間があまりにも長く感じられ、
無限の穴に落ちたかのような途方の無さを覚える。
発信したくて、そしてそれを承認してもらいたくて仕方がない。
何気なくとった写真やふと思いついた言葉や面白い日常を誰かと共有しないと、自分が無価値な人間になったように感じる。
そしてそれは、内面の不安や焦りに直結していく。
スマホ中毒という言葉が生まれて久しい。
誰にも聞き馴染みのある言葉になってきたものの、しかし、こんなにも自分がスマホ依存に蝕まれていたなんて、全く気付かなかった。
そして、僕たちはスマホに何を求めているのだろうと考えた時に、それは紛れもなく”現実逃避”なのだと気づかされた。
きっと、それ以上でも、それ以下でもない。
SNSを見ている間は、自分が現実で直面している問題を直視しなくて良い。
それはなにも、明日提出しなければいけない資料をほったらかしに、XやインスタやYouTubeを見て夜を溶かすという意味だけではない。
僕たちの現実問題や未来すらも、SNSが提示してくれる一つの成功例や正解をフィルターに挟んで、僕たちは見ている。
つまり、SNSを使って誰かの人生と繋がり、自分の現実を少し楽観視して受け入れていくのだ。
「この人が言ってるなら大丈夫そうだ」と。
たったそれだけで、現代を生きる僕たちの心は救われていく。
僕たちは(あるいは僕は)独り内省しながら、誰にも受け止められない言葉を蓄積させていくことがとても苦しくなってしまった。
そして、これは発信する時にも同じ問題が起きている。
SNSで投稿する写真も、言葉も、動画も、誰かに見られることを前提としていて、それも現実逃避の一部なのだ。
自分と写真、自分と言葉、自分と映像作品。
それぞれとの対峙に第三者を介入させないと気が済まない。
”好きだから”
それだけの理由があれば、産み出し続けたくて、もっと上手になりたいと思えたはずだ。
先人たちの創造物に憧れて、そこに果敢に挑戦していく日々が、かつての僕にも確かにあった。
誰かに見られることがなくなれば、僕たちはそれらを産み出そうとする意義も失ってしまうのだろうか。
クリエイトしていく対象と真っ直ぐに関われていないことに、一つの不純な動機を嗅ぎつけてしまう僕の嗅覚は時代遅れなのかもしれない。
何のために、言葉や写真や動画を生み出すのか。
スマホを手放し、鑑賞者と繋がらなくなった先で、この問いを自分に投げる日々は続きそうだ。
こうして書いているこの言葉も。
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