シリーズ日英対訳『エッシャー通りの赤いポスト』コラム 愛と性にどう向き合うか①
映画『エッシャー通りの赤いポスト』にはプラトニックな場面が登場する。ジョーと夏芽との恋愛模様、小林心中クラブが小林正監督に対する強烈な寵愛や密着ぶり、小林が方子への爆発的な熱愛などのシーンが所々で描かれている。この映像作品を手掛けた映画監督の園子温氏は「金の卵」と呼ばれる女優たちにスポットライトを当て、鑑賞者を魅了するスターへと変貌を遂げるよう促したのである。
しかし、現代社会に目を移すと、ある問題が浮上したのである。性被害・性加害問題だ。ここ数年の間、芸能界で相次いで芸能人への性被害・性加害の問題がネットニュースを主として顕在化するようになった。『エッシャー通りの赤いポスト』の監督を務めた園氏もその一人だ。彼の映画の作品への出演を切望した女優に対し、出演と引き換えに個人の心情を蔑ろにして性加害を行ったことが判明したのである。不本意な性被害を受けた芸能人の中には精神疾患を抱えた者がいれば、次第に孤立感を深め、ほどなくして非業の死を遂げた者もいる。
もちろん、私利私欲を満たすために他者への性加害を行ったことは到底許されるべきことではない。自身の欲情を満たすために性加害を行った園氏は被害を受けた女性の苦しみがどれだけ重いものだったか。あるいは荒んだ心に傷をつけられ、悲哀と絶望に追いやられて世を去ったという事態に直面しても何とも思わないのだろうか。実に倫理を欠いた行為であろう。不当な性加害は大いなる恥だと認識するべきだ。被害者は実情を裁判に訴訟した上で、園氏に対して損害賠償請求などの法的措置を取る必要がある。
だが、日本社会では性愛の問題を巡って事件が起こる度に不穏な空気が漂うことが多い。性に関する話題そのものをタブーと見なしているからだ。
実際に、電車の中つり広告で掲載する巻頭グラビアモデルの女性を見た子供が親と話すときに、性的な言葉を口にすると親が注意して口止めするという例を本やネットなどの媒体で目にしたことがあるだろう。確かに世間の目からは非難されることになる。性的な話についてどう向き合うかは悩みどころである。
このように、性愛そのものを不道徳だとみなし、見ることや語り合うことすら他者から白い目で見られてしまうのだ。
果たしてこのまま性愛そのものを頭ごなしで否定してしまってよいだろうか。むしろ愛と性について学び、考えることは個人の健康や安全について考え、結果として幸せな人生を送るために不可欠なことでないか。
本コラムでは、性愛が禁忌に至った背景を歴史的視点から紐解き、世界各国の事例を織り交ぜながら性愛文化についての理解を深めるよう努めていく。さらに性感染症の問題や性教育の重要性を引き合いにしつつ、愛と性についてどう向き合えばよいのかを考えてみよう。
性暴力がどれだけ人を傷つけるのか
まず芸能界で起こってしまった性暴力を契機に、男性からの性加害がいかに愚鈍な行為であるかを認識する必要がある。弁護士の太田啓子氏は子どもが小さいうちに性教育を行う重要さを説いた上でまだ年端もない男の子に対し、このような実体験を綴っている。
ここで重要なのは人が相手に同意を得た上で心の底から真に愛する者のみ性的関係を築くことが理想だという。一方で、相手が嫌がっている気持ちをかなぐり捨てて私利私欲のために性行為をすることは人権侵害に抵触する。さらに性行為によって精神的な苦痛を受けた人にとっては人生で大きな禍根を残すことになる。とてつもない恐怖感を味わい、最悪のパターンとして自傷行為に陥ることもある。この指摘は成人男性に認識すべきことであろう。太田氏はさらに続ける。
2つの調査結果が示している通り、果たして男性は女性が性暴力被害を受けて塗炭の苦しみを抱えていることすら理解できないのか。何の恥じらいもなく、「女は男の欲情を満たすだけの存在であればいい。」というスタンスが優先されるのだとしたら、男性側の不見識と思考の劣化だと決めざるを得ない。性について深い知識や経験を得て、他人の気持ちの痛みを真摯に受け止めることだ。これは女性だけでなく男性への性暴力も同じことがいえる。
なぜ日本は性表現が規制されたのか
とはいえ、日本では性愛についてタブー視する傾向が世界と比べて著しく強い。なぜ日本は性愛について知ることや語り合うことが不道徳だと見なされるのか。結論から言うと、明治期の性表現の規制が性愛文化を衰退させてしまったと考えられる。
かつて平安期は「日本書紀」「古事記」「源氏物語」「万葉集」といった日本古典文学作品に性的な描写が多く登場するほど性愛について大らかであった。江戸期では春画や銭湯での男女の混浴文化が盛んになっていたほどの性愛文化が浸透していた。しかし、明治維新をきっかけに性表現の規制がかけられ、「性愛は不道徳だ。」という空気に移り変わっていった。性表現規制の歴史に詳しい法政大学准教授の白田秀彰氏は「性愛はだめだ。」という発想が明治期から広まったとした上でこう指摘する。少し長いが引用する。
明治政府は西洋諸国に対して「偉大なる国家」を示すために性愛に関する風習を衰退させ、男性に国民皆兵を導入して武士のように質実剛健の精神を備えた国民に育て上げたのだ。対照的に、女性に対しては次のような政策を打ち出した。
明治政府は女性の高等教育にキリスト教に基づいた価値観を浸透させた。とりわけ女性はミッションスクールに進学し、キリスト教の規範に基づく「純潔」や「愛」の価値観を主流とした教育を受けることになる。そこで女性はエッチなことをしてはいけないと教え込まれる。
こうした歴史の流れによって日本人は性愛についてタブー視する空気が常識としてまかり通り、世間の目から厳しく見るようになった。
欧米でもキリスト教の規範に基づいた価値観で「えっちな表現の規制」を求める声が宗教団体や婦人団体などによって高まった。1800年代には表現規制のルールが出来上がった。規制が緩和し始めたのは1960年代の頃からである。「表現の自由」を重視するために性表現規制を見直す行動が出たからだ。
一方で、日本は変わらずに性愛について厳しい眼差しが向けられている。語ることも経験談を口にすることもはばかられる。現代では自由と民主主義を重んじる社会で「表現の自由」が担保されているにもかかわらず、性表現規制の基準が曖昧なまま、「わいせつな」表現は刑法で規定されている。そこへインターネットの発達によって、性表現規制の潮目が変わってきたのだ。白田氏は疑問を投げかける。
現代の若者が性行為から離れているということは恋愛そのものが疎遠になっていることにつながるのだろうか。だから性表現規制を続ける必要があるのかという問いかけだ。
前述の太田氏は別の視点で「性表現が悪い」のではなく「性暴力を娯楽にする表現」が問題だとして、次のように指摘する。
映画『エッシャー通りの赤いポスト』にはプラトニックな描写が所々で登場する。男女との性的関係にまつわるシーンが出てくる。過激な描写があるわけではないものの、中学生以下の子どもにはこの映画を観てはいけない。映像シーンによって性的刺激を受けやすくなるからだ。
性暴力を描写する場合、実際の映像シーンが性暴力と認定するものでなければならない。そうではなく、太田氏は女性が不本意に性的な姿を晒される場面を娯楽のように扱うのは女性を蔑視することを創作側の大人がまるで理解していないことに憤りを感じるのだ。性暴力を受けた女性の心情すらかなぐり捨てて、人権を蹂躙することになりかねない。
こうした問題意識を念頭に置いて、これからの性の問題を解決するためには学校教育や地域コミュニティなどの場で性教育をしっかり行う環境を整えることが重要であろう。