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隠れた支配欲

自分が好きと思うものを他の誰かが好きかどうかはわからない

自分がいいと思うことを他の誰かもいいと思うかどうかはわからない

それはなんていうか想像しやすくて、だから、ほとんどの人は好きの押し売りはあんまりしないんじゃないかなって思う。

「わたし、これが好きなんだ」「わたしはこれがいいと思う」

「わたしは」をつけることで、幾分会話の雰囲気もやさしくなる気がする。

でも、そうじゃない、もっとわかりにくいところに意外と自分の意見の押し売りが隠れていることがある。

これをわたしはよくやってしまっていたような気がする。

っとふと思ったので、反省を込めて記録しておこうと思う。

わたしはお仕事でこどもと関わる機会が多いのですが、そのときに

「こうしたらうまくいくのにな」とか「こっちの方がゆくゆくはいい方に転がるのにな」と思ってしまうことがある。(まぁ思うまではいっか!)

昔のわたしは、なんていうか我ながら支配欲たっぷりだったと思う。

直接的に言わずとも「あなたのためなの」感をだして変わってほしいという気持ちが前面にでていたように思う

しかもそういう気持ちって無意識に相手に伝わってしまうから、相手も頑なに変わらないの笑。

そのときのわたしは自分の正解が相手の正解だと思い込んでた。(これは生徒に限らず、プライベートでもやってしまっていたかもしれない、、、ほんとうに反省、、、)

相手の状況的に「変わりたいけど変われない」葛藤の中にいたのをわかっていたのに、それでもなぜか自分の中の「正解」に執着してしまっていたように思う。

そりゃうまくいくわけない。

でもこの話には続きがあって…!

なんのきっかけがあったかは忘れてしまったけれど、ある時からその「正解」へ向かうことを手放すことにした。

もう疲れたのかもしれないし、なんか気づきがあったのかもしれない。

とりあえず「変わってほしい」じゃなくて「隣で見守る」スタンスに変えてみた。

というか、極論何もしない!!笑

でもこれがよかった。

気づいたらその生徒はひとりでに変わっていたったし、なんだかんだいつのまにか自分でいろんなこと納得して大人になってた。

「変わってほしい」はその子のためでもなんでもなくて、

ただただ「自分のため」だったことに気づいた。

というただのお話。

例えば自分の経験から、結果や予後がよかったものって美化されやすくて、だから相手にもそれがいいんじゃないかって思いがち。(わたしは、わたしはね!)

けれど、見えてる世界も感じ方も、考え方も違う中で、はたして「それが正しい」なんてどうして言えるんだろう。

それに、おそらく、わたしが介入することで相手の大事な成長の機会を奪ってしまうかもしれない可能性もある。(これはまた別のお話)

やっぱり「正しさ」っていうのは扱い方がとっても難しいなと思う今日この頃です。

おまけ

ちなみに今は一周回って、

希望やしてほしいことがあれば、ストレートにいうことにしていて、やるかやらないかは本人に任せるっていうスタンスでしています。(それも最善かはわからないけれど)

毎度毎度、(生徒に関わらず)人と関わることは試行錯誤だらけです、、、

まぁでもだから楽しいのだけれども…!


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