【映画感想】マトリックスシリーズ
はじめに
この雑記はいまさらマトリックスシリーズを視聴した私が感想を書き連ねた文章だ。
私にとってのマトリックスは、四次元殺法的アクションを高レベルに仕立てたという印象だけをコマーシャルによって植え付けられた映画だった。ところが映像のアクション技術のすばらしさを語る知識はない。なにせそちらに興味をもったこともなかった。「ふーん、そういうものか」としか思わなかったので結局視聴することはなく、どういう物語なのかを知らなかった。
今回視聴してみて感じたのは、異質になることと同質になることのについての描写だった。つまり登場人物の行動が違うこと/同じことにこだわっていると思ったのだ。
こういうことがSFでは普通なのか、私は知らない。「少女漫画的だなあ」という印象を受けるのだが、どうだろうか?
ともかく、異質/同質のシーンが面白かったので、そこらへんを語ってみたい。
物語の入口
主人公ネオは裏の顔はハッカーであり、表の顔がプログラマーだ。二面性を前提とした物語なのだ。
この時点でクールだと思ったのは、トリニティとモーフィアスが警察とエージェントの追手をかいくぐったあとに、滝のような汗をかいた寝姿で登場した、その陰鬱な表情を隠すシュッとしたエリートのプライベートが垣間見えたからだろう。裏の顔を持ちながら、トラウマに悩む人物はクールだ。
ネオは商売相手のチンピラに、この世界が現実でないような感覚を持ったことはないか尋ねる。そんなことより遊ぼうぜ、とチンピラ。
追い返してすぐ、モーフィアスから電話。ネオが抱える長年の悩みについて、はじめてかみ合うような話ができる。しかし時間はなかった。
こうした冒頭のシーンから、ネオが孤独に生きているとわかる。社会の中で通用しない悩みを抱えた異質なキャラクターであり、主人公あるあるでもある。
その後エージェントから拷問を受けたあと、夢から目覚めるように自室で飛び起きる。再びモーフィアスからの接触があり、真実を知りたいなら選択せよと迫られ、赤の錠剤と青の錠剤を差し出される。ネオは真実を求めて赤を選択する。
すると、巨大な人間を培養する装置の中で目を覚ます。現実だと思っていたのは現実ではなかった。これまでの人生はすべて仮想現実世界で作られたシミュレーションだったとあきらかになる。そこから、人類を動力として培養し続けるAIマトリックスに対して、現実世界から徹底抗戦を続ける人類最後の戦いが幕を開ける。
長々とあらすじを書いてしまったが、ようするに繰り返し世界観が裏返っていくうちに、なにが現実か?という疑問が発生することになる。それはネオの悩みと同質で、いつの間にか私の視点はネオと一致している。その意味で、ネオは異なる存在を同質に変化させてしまう力があると思った。バレットタイムや仮想世界での他者の身体に潜り込むといった特殊能力は、この言い換えをした表現であろう。
日常という時空におかれたネオは自分でも原因がわからない悩みを抱えており、孤独を感じている。したがってネオは世界の真実を知りたがっている。しかしそのような都合の良いものはどこまでいっても誰かが用意した筋書き、という形でしか語られない。教えてほしいとネオが懇願するから応答が返ってくるだけだ。しかしネオは話を信じても、満足はしない。そのように突き進むのは、答えが問いかけに対応していないか、問いかけが欲望に対応していないかではないだろうか。ネオは話を信じて前に進んでいるから、答えと問いかけは対応関係が成立している。それならば、問いかけと欲望の対応関係が問題になる。
ネオはエリートプログラマーの裏の顔として、ハッカーという一面を隠している。その部分は知りたいという欲望を表しているだろうし、ハッカーは隠されたプログラムを把握する役割がある。だからネオにとって、裏の顔は自分とは異質な他者の裏、あるいは内部を理解するという行動だと思う。ネオは他者を知りたがっている。ところが他者とは、真実を求めても明らかになるとは限らない。そうでしかないから、第一作目のクライマックスにおいて特殊能力に目覚めたネオは、マトリックスが異端分子を排除するために派遣したエージェントのスミスという他者の身体へ飛び込んだのだろう。身体を通過して内部に入り込み、内側から把握したスミスを変質させてプログラムを崩壊させた。マトリックスシリーズではこの力の意味が変化していくように思う。
シミュレーションの破綻
語られた真実を聞くたびに世界観がひっくりかえっていくなかにあっても、ネオは知りたがっている。人類のコミュニティ《ザイオン》に所属する《ネブカドネザル》船の一員として、現実と仮想を行き来しながら、特殊能力を使って人類救出活動に参加することを選択した。
”リローデッド”において紆余曲折を経たネオは、《ソース》というマトリックスのメインコンピューター内で、マトリックスの父アーキテクトに出会う。そこでは、プログラムから外れた異端者が一定数出てしまうことも設計には組み込まれており、人類との攻防も、救世主の出現幾度も繰り返されてきたと突きつけられる。ネオは六人目の救世主。
ネオとの接触――それが過去であれ、未来であれ――ネオの選択が、想定内のシミュレーションとして提示される。とはいえネオは、ザイオンの滅亡と恋人となったトリニティのどちらを救出するか選択を迫られて、トリニティを選んだ。つまるところ、ネオはトリニティにとっての救世主になるという話なのだが、第一作目において居場所のなかったネオが仲間を手に入れ、その仲間の裏切りによって失ってしまった居場所を、”リローデッド”においてはトリニティが打ち立てたということになる。
トリニティの命を奪いかけたのは弾丸だった。ネオはトリニティを救うため、身体に入り込み急所を破壊したその弾丸を、身体に腕を突き入れることで直接つまみ上げた。そしてトリニティのプログラムの崩壊を修復したのだ。同じく身体に入り込む弾丸とネオの違いは、関係性の断絶と奉仕だと思う。死に至らしめる弾丸は他者を拒絶し、ネオはトリニティという他者との関係性を蘇らせた。したがって、ネオの行動は身体のみならず関係にも影響を及ぼす。第一作目が異質な身体についての理解だとするなら、”リローデッド”は異質な者との関係についての理解を描いていた。
ちなみに《ザイオン》でのネオは救世主だと思われている。そういう予言があり、それに見合う特殊能力があったからだ。ところが第一作目から、ネオはその予言をのらりくらりとかわし続けており、役割を頼もしく引き受けたわけでもなんでもない。なれるものならなってもみよう、程度でしかない。予言者オラクルもネオがそうだとは名言しておらず、救世主を見つけるという予言を信じていたモーフィアスが見出したために、ネオがそうだと皆が信じたというややこしいいきさつがあった。そうであればこそ宙に浮いていた予言は、トリニティと一緒でなければ意味を持たなかったのだろう。
二人が恋愛関係になることで、予言に変質をもたらすことになるとはマトリックスも想定していなかったようで、シミュレーションに破綻が起こる。あるいは筋書きから逸れていく、別の物語がはじまる。つまり、ネオとトリニティが自分たちなりの物語を作り出していくという力を持つという内容になる。
鏡合わせの仮想敵
ところで、人類の抵抗は野性味が溢れる泥臭い消耗戦を強いられており、とてもではないが25万体ものロボット《センチネル》から生き残れるような要塞でも装備でもない。たしかに滅亡するのが当たり前なように、マトリックスが用意した筋書きだと感じられる。
第三作目の”レボリューションズ”においてネオは、現実世界で《センチネル》を停止させる特殊能力を使用した影響から、目を覚まさなくなっていた。心のみがプログラムの世界に入り込んでしまい、トリニティたちに救出されたあと、すべての戦争を終わらせるためにマシンシティを目指す。そして、道中トリニティを失いながらも、システムを内部から崩壊させかねないスミスを倒すかわりに人類の生存を要求して、マシンシティから再びマトリックス内へ降り立つ。
さて元エージェントであり、第一作目においてネオと敵対するキャラクターであったスミスは、力を奪うことを目的にこれまで、ネオや物語の重要人物へ接触してきた。その存在は脅威的で、プログラムを上書きしてコピースミスを増殖させるという、ネオと似通った力に目覚めていた。マトリックスにとっての異端分子となったスミスはシステムを破滅させることを目論んでおり、オラクルさえもスミスに上書きしてしまう。その力は現実世界でも、ベイン――その意識は上書きされており、《ザイオン》陥落の手引きをした――という密航者によって、ネオたちを妨害する。地道な人類補完計画活動といった感じのスミスは不気味かもしれない。
そもそもは第一作目において、ネオたちの抹消を目的としたマトリックスのエージェントだったスミスは、ネオとの同化によって崩壊したはずだった。”リローデッド”において復活したスミスは、システムを破壊するためオラクルを上書きしてその力を奪っていた。オラクルはスミスについて、救世主とのバランスをとる設計から生まれた破壊分子と語っており、人類とシステムに共通する敵であると位置づけていた。そして”レボリューションズ”において、最終決戦としてネオと対峙する。つまり主人公と鏡合わせの関係にある仮想敵なのだ。その結末は吸収か対消滅だ。
さてスミスは特徴的な頭髪と独断的な攻撃性、プログラムでありながら歯をむき出しにする感情的な厭世感を貫くキャラクターである。その姿はスタイリッシュでクールなネオとは異なり、無骨で強引で粘着質である。個性を獲得したがためにすべてを敵に回し、無理を振りかざすスミスは何も格好よくはない。格好よくはないが、愛すべき暴れん坊ではある。姿こそおっさんではあるが、スミスは実質赤ん坊だと思う。他者によって自立した時、世界を受けれられずに異質な身体も関係性も否定してまわっていた。そうすると、ネオと対照させること自体におかしさを感じる。
実はスミスはネオと敵対するが、ライバルでもなんでもない。ネオは知りたいという欲望を会話によって体現できるし、そのための行動を起こしていた。しかしスミスが知ることを目指して行動したのは、世界を崩壊させたいという欲望によるものだった。そのような目的で暗躍するスミスの理解は、世界そのものについて欲求もない。むしろ異なる存在を知りたくないから、知りたいと行動するネオに敵対する。だからオラクルと対峙した時、予言の力を奪おうと躍起になり、オラクルにとっての世界が真実かどうかを加味せず、都合のよい未来が手に入ると信じて疑わない。その純真さがまるで赤ん坊だと思うのだ。そのことは最終決戦の決着からも見届けられる。
似たような特殊能力を持ったネオとスミスが雨の中で、大量のスミスに眺められながら一対一の戦闘を行う映像が一番面白いと思う。このシーンではマトリックスシリーズがはじまった際のネオがモーフィアスを相手に力を磨いていく修行風景を彷彿とさせる、肉弾戦の応酬による楽しさを開放とともに、ネオはかつてのモーフィアスの役割と同じに、スミスが世界を理解するための助けとなっていく。
その結末として、生と死のどちらを代表者が勝ち残るかという話になった上で、スミスはネオを上書きしようとする。ネオはそれを受け入れてスミスに同化したことで、異端分子消滅プログラムが遂行された。それはスミスとともに消え去るという選択だった。これによって人類とAIとの戦争は終結する。同化した時の動揺したスミスの表情は、ようやく異質な存在としての他者を理解した赤ん坊であろう。
スミスは上書きすることでしか存在できず、他者の物語を自分のものとして奪い取りながら、真実を知っているはずの他者の能力のみをトレースした。対してネオは他者を同質のものにする力ではあるものの、最後の選択は他者の考えを受け容れながら自分が求める世界観の実現を目指すという方針があった。第一作目でスミスを崩壊させ、”リローデッド”でトリニティの破損を修復したネオにとって、仮想世界での同化は他者を知るほかに、自分の新たな側面を発現し、自分も変化していくという意味があった。その時、他者の拒絶は起こらない。他者を受け容れて、世界を理解し、学んだ真実をもとに自分の世界観を構築できると考えるのがネオだと思う。
その上で、マトリックスシリーズにおける私の推しはスミスである。スミスほど不気味でありながら、その暗躍のわりに純真で己を貫き、そして失敗したキャラクターはほかにいないと思った。スミスは人類の失敗譚であろう。このキャラクターは不安と破綻と変化を与えてくれる。シリーズを通じてスミスを見たいと思って見ていた。スミスがきちんと失敗した時に、その思い違いを喜ぶためである。
おわりに
マトリックスシリーズをざっくりと語ってみた。視聴直後は考えがまとまらず、スミスの話をもっとしたいと思っても、言語化できなかったことが悔やまれたため、親族構造だとかちょっと触れた記憶をすべてリセットして書いてみた。
つらつら書いたせいで読み返すとなげえなとは思うものの、書きたいことの尽きない面白い作品であったとも言える。とりあえず私の考えたアウトラインはまとめられたので満足した。
第四作目にあたる”リザレクションズ”については、おおよそ三部作を整理しなおして主人公がネオとトリニティ、とくにトリニティへと引き継がれた物語だと思ったので、面白いとは思うが本記事で感想をまとめる必要はないと感じたので割愛する。今度はスミスが協力的に活躍してくれて満足である。
さてトリニティとネオによって再び新たな物語のはじまりを予感させ、晴れやかな夜明けを迎えた街の上空へ二人は飛び立つ。
”リザレクションズ”は自分の物語を生きる選択が排除されない、活躍と希望を結末に描いていた。オタクとして変化していく私は、次の物語を探す。新たな「推し」はいづこか。広大な映画世界に飛び込んで探索を続けたい。
(2023年3月1日更新)
(2023年5月15日更新)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?