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30代でキャリアを2度詰んだ私が、40歳のいま、これからの「働く」を考えてわくわくしている

働く女性。私にとってのもっとも身近なロールモデルは母だった。

御年65歳。20歳で短大を卒業した後、途中育休をはさみつつ、家事育児に加え、嫁業、地域の仕事、何足ものわらじをはいたうえ、40年、ひとつの仕事を全うした。

「私の人生の誇りは、二人の娘を持てたことと、仕事してきたことかなぁ」と、いつも母は満足げに話す。そんな母が先日、私にこう言ったのだ。

「せいこ、40代はいいよぉ。仕事が楽しい時間!がんばりや」

「20才おめでとうございます」って40歳の誕生日にもらったメッセージカード by 娘のともだち

私は今年、ついに40の大台に乗った。

そういえば29歳の頃、「三十路なんて人がなるもんやろ」くらい他人事に捉えていたのに、気づいたら30歳はおろかその30代をさらりと終えて、もう次のステージに突入してるんだから、ほんと、ぼうっとしてたら時間なんてあっという間に溶けるわな…

「ふむ、そうか。40代は仕事がおもろくなる頃なんか。」

母のお墨付きがあるという理由以外に、私自身にもまた、じんわりその実感がある。

キャリア暗黒期の30代

かくいう私、30代で二度ほどキャリアを詰んでいる。一度目は2015年、第二新卒から務めた出版社を退職する決意をしたとき。

その2年前に結婚した、当時私の勤務地からは遠く離れた職場に勤めていた夫とは、別居婚を選択してまで続けた会社であった。

子どもができ、保育園に預けながら、いやでもさすがに、これ以上家族別での暮らしは難しいと感じていた。

夫ではなく、私が退職した。好きな仕事だったけれど、そうした。

時短勤務と、さほど要領のよくない私のキャパではとてもさばききれない量の仕事のため、その頃といえば土日もほぼなく出勤して働いていた。

休日出勤するとき、子どもは夫か、実母たちに頼んで職場に向かう。今週はここまで、とスケジュールを引いたタスクを完了させたところで、翌週に子どもが風邪をひいたら、休まざるをえない。

いつまでもなくならない仕事、終わらぬ連日出勤。いろいろと限界であった。

二度目の転機、中国転勤

キャリア詰みポイント二度目は娘がいよいよ3歳になる頃、夫の海外転勤が決まったとき。

場所は中国。行ったこともないし、ネガティブな情報を聞くことも多く、帯同には不安もあったけれど「行かない」選択肢はなかった。

住んでたマンションの前に広がる広場から

しかしここで大きな問題。発行されるビザの関係上、帯同家族である私は就労ができなかった。誰かに許可を求めないと、労働の権利すら与えられないのか、と愕然としたことを覚えている。

こっそり働くことはできる。でもこっそりってなんなん。そこまでする必要があるのかもわからなかった。

仕事を辞めることも、海外転勤についてくことも。両方、自分で選んだはずの道。

なのだけれど、それはかつて、私がまだ20代の頃、「こんな生き方が、働き方がしたい」と願ったものとは少し違うものだった。

自分の能力を思い切り使って働き、誰かの、何かの役に立つ。お金をもらって好きなことに使って。なんて自由で素晴らしい行為。そう、私は「働くこと」が心底、好きだった。

にぎやかな春節 in 香港。とはいえ中国生活は楽しかった!!!!

私にとって、自己表現の一つだった働くこと。その道をゆけないと知った時、焦りに心が支配されることが多くなった。

先が見えず、自分がしたいこともできることもよくわからなくなって、小さなことでイライラしたし、同年代の子が仕事で活躍するのを知っては苦しいくらいに嫉妬して。

家族に行き場のない感情をぶつけたこともあった。

ここは、私が選んだ場所なのに。

満たされないでいる自分に嫌悪感さえつのる。閉塞感のなか、でもできることといえば「自分は、どう生きていきたいの」と、自分自身に聞くことだけだった。

  • どうあれば、私という人間は幸せなんやろ?

  • そのために、「今」「この場所で」できることは何?

一朝一夕で解決する問いではなかったけれど、同じ境遇の仲間と出会い、語り合い、自分を見つめる中で、やがて答えのはしっこが見えてくる。

「キャリアは人生そのものだ」と話す人に出会ったから。

どっち行っても正解やで

キャリアとは職業上の地位や経歴だけを指すのではなく、仕事以外のさまざまな人生の役割を含めたトータルなもの。「働くって、ものすごく広い意味を持つ行為」。そう思えたとき、目の前がすこーし明るく照らされた気がした。

その考えに触れてからは、日常というものに自信を持てるようになった。時間を浪費しているような気すらしていた家事の時間も、大切なひとときに変わった。

その時々で、できることの最善を尽くす。そうしてたらそのうち、知らぬ間にちょっとずつ、納得のいく「キャリア」につながってるかも、と思えるようになた。

労働とは別のかたちで、さまざまな活動にチャレンジもした。仲間を集めて語学学習の会を開いてみたり、無償ではあるものの、現地の人に日本語を教えてみたり。

駐在の数年を意図的に過ごせたことは、今の私の礎になっていると思えている。

いつか習いたい、道に水で書をしたためる「水書道」

何より良かったことは「私はこの道を選んでここにいる 」と思えるようになったこと。

自分で選んだ道に心底納得している。この感覚を持てることで、人の人生は何倍にも充実する。変化の多かった30代で私が学んだ、いちばん大きなこと。

そして、40歳を迎えたいま

フリーランスのライター、インタビュアー、ときに編集、そしてディレクターとして「書く」「伝える」お仕事をさせてもらっている。

ご縁を広げてくれたのは、間違いなくMarbleスクール、そこからつながったMarbleコミュニティ。

23年8月、Marbleスクール2期生の仲間たち

Marbleに出会って、私は「書くことで貢献できる世界」が、こんなに広いことを知れた。この1年はその広がりを、身をもって体感している。だってほら、みてくださいな、この1年の永田お仕事実績を…!!!

月報で振り返る永田の成長ぶり。まずは1月、ここからの…

最新月報が↓この、10月のです。
(あぁ11月が書けてないことには気づかないで)

月報だとうまく伝わらないかもだけれども…!!!

2022年、Marbleスクールに出会う前の実績といえば、当時一社からいただくSEOライティングがメイン業務だった私。

それが今やどうだろう。

携わるクライアント様の数も8つに増え、仕事の幅にいたってはライティングのみだったのが、編集、そしてディレクション…といくつかのレイヤーをまたいで携わることができている。

さらに…

12月からは、退職でいったんその現場を離れた「本づくり」にも、ふたたび関わらせていただくことになったりと…。

いやぁ、この変化はたんじゅんにすごいことだ。(自分で言うてしもて)

ただ…

書くに少しばかりの経験があった私はでも、Marbleとの出会いで、過去の経験などミジンコレベルだったと気づかされ、それはそれはもうなんどとなく頭を打ちまくってたぶんこの1年で背が5ミリは低くなっている。

書けば書くほど、自分の書けなさかげんにうんざりするし、「もう知らん」とふとんを頭からかぶってうじうじしたくもなるけれど、でもやめない。

だって楽しいから。

仲間もたくさんできたのです

書くことも編集することも、とっても苦しいし、いつまでたっても難しい。

記事の書き出しが定まらず、たった数行に2時間かかったときには「ほんまに頼むで自分!!」と情けなくなるけれども……楽しいのだから不思議よね。

辞めずに書いて、書いて、書き続けて。自信をつけて、また打ち砕かれて、そんなことをしながらでも書き続けていつか、私の言葉で誰かを応援することができたら素晴らしいな、と思っている。

30代でキャリア詰みを経験した私。働くこと、人生で、自分の想定を大きく覆すできごとが起こるなんてことは、これからも大いに考えられる。でももう焦らなくて大丈夫。だって私は、どこにいても、何をしていたって、着実に”キャリア”を積んでいけるのだから。

30代を終えたいま歩んでいる道は、10代、20代の私が願ったものとは違う。でも今はっきり言えること。私はこの道を、楽しみながら歩いている、ということ。

「せいこ、40代はいいよぉ。仕事が楽しい時間!がんばりや」

母からもらったこの言葉を私もまた、私自身に送ってみる今日この頃。

おまけ。中国で見かけた、たぶんトーマスな乗り物






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