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娘考察『泣いた赤鬼』にみる、人の幸せを決めるもの

『泣いた赤鬼』泣いた赤鬼 - Wikipedia

小学校の教科書にも載っていて、2年生になる娘は今、国語の時間にこちらを学んでいます。

私が子どもの頃、このお話を読んだとき、とても悲しい気持ちになったことを覚えています。皆さんは『泣いた赤鬼』をご覧になったことはありますか。これを読んで、どのように感じられたでしょうか。

※なお、以下は物語の内容を頭に入れてからご一読いただくとなおよしですww

***

◆『泣いた赤鬼』永田的考察

私の悲しい気持ちを紐解くに、
青鬼ひとりが悪者になる展開に
憤りを感じたのだと思います。

一人さみしく山を去ったであろう青鬼の姿を想像すると、哀れでさみしくて、泣くしかなかった。

音読の宿題があるので娘が読んでくれるのですがそれを聞いてもやっぱり悲しくてまた泣きました。
(ナガタ涙腺崩壊疑惑)

さて。
娘と私はやはり違う生き物だ、と実感するのは、物語などに対する感想の差。をみたとき。


まぁおもしろいほどに違う。まったく違う。私がどや顔で買った名作(と私が思っているもの)を、これまたどや顔で読み聞かせても娘の反応の薄さったら。

私「どやった?え、感動しぃひんかった?」

娘「え…まぁ…特に」

今回も、「青鬼かわいそう。ひとりでどっか行くなんて可哀そう」と私がむせび泣いている傍らで娘はしれっとしています。

「えぇ、さっちゃん(娘)はさぁ、
青鬼、可哀そうって思わへんわけ!?」

もはや謎の怒りモードで問う私に娘が言ったひとことに
私はそれまでの価値観を大きく揺さぶられることになるのです。

「さっちゃんは青鬼をかわいそうって思わへん。」


◆『泣いた赤鬼』娘的考察

「だって青鬼は自分で決めたから。
人間に叩かれるのも、一人でどっか行くことも、自分でそうしよって思ったんやから。何もかわいそうなんて思うことない。」

ですと!!!

周りにどんな仕打ちをされようとどういう評価を得ようとも自分が自ら選んだ行為の結果なのであれば。

悲しむことも悔いることも、ましてや周りから哀れまれることなど
何一つありはしないぜ。

…と、
娘が言ったのではありませんが、そういう風に解釈していることが彼女の話しぶりから伝わってきました。

たーしーかーにー!!

「それよりも、そんなこと知らんかった赤鬼がかわいそう。」

たったひとりの友人が自らを犠牲にしてまで自分を幸せにしようとしてくれた。

けれどそのことを、知ることもなかった自分はなんて愚かなのかしら。赤鬼はそう思ったのかもしれない。

小2女児からの問いかけにここで初めて赤鬼目線になれた37歳は私です。

青鬼と違って、この結末に向けて、自分で何かを決め、行動をしたわけではなかった赤鬼はもしかすると、立つ瀬のない気持ちになってしまうのかもしれません。

後悔を感じてしまうのかも。


◆人を幸せにするモノ


『泣いた赤鬼』をめぐる娘との一連のやりとりから思い出したことは、

自ら決めて、行動することがその人の満足感につながるということ。

たとえ周りに疎まれるってわかっていても、それでいいんだと思えてそういう行動をとったのだとしたら、本人は悔いることなどないわけで、周りからどう感じられようと満足している本人には、一向に関係ないこと。

可哀そう、かわいそうと私にさんざん泣かれた青鬼はむしろ「赤鬼のために
できることをした」と晴れやかな気持ちで山を去ったのかもしれません。

そんなことまで、おかあちゃん考えてなかったよ。

いやはや、物語の考察っておもしろい。答えもないし、もっと他にも考察の方法はあると思います。

正解もないからこそ、いろいろな人たちの、子どもたちの、“考え”聞いてみたいと思います。

ある物語を、みんなでじっくり読んでそれについて話をしあう。

「私はこうみた」
「僕はこう」

そんなやりとりをしたい。
子どもむけの読書会になるのかなぁ。
いつか取り組みたいテーマのひとつです。

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