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骨抜き(SS風雑談)

わたしは値引きに釣られて購入した塩サバフィレと向き合っていた。

いかに料理すべきか。
「今日なにを食べようかと思い悩むな」というようなことをイエスが言ったと記述があるが、身の処し方を考えてやらぬことにはサバもわが家族の胃袋も浮かばれない。

青魚の手軽な摂取手段として日頃から青魚代表として食卓に出場しているサバだ。臭みを消すために特徴的な味付けの場合が多いから期間を空けても再々登場感が強い。

ネタが尽きた。

少なくとも手軽にできるメニューはやり尽くした。
しょうがなくレシピサイトに頼る。食が細い娘に訊ねる。「どれなら食べたい?」

「これなら臭くなさそう」と言って娘が指定したメニューはわたしにも美味しそうに見えるものだった。
梅と大葉か。それなら家にある。
早速作ろうかと思ったが、大葉を摘みに娘を向かわせながらよくよくレシピに目を通すとその他の材料がない。

結局梅と大葉はそのままに、オリジナルのメニューに変更した。従ったのは梅を叩くことだけだからアレンジとすら呼べない。
梅と刻んだ大葉をサバに付けて、挟み揚げにしようにも方法も見つからず。
やむなく冷凍してあった餃子の皮で春巻きのごとく巻いて天ぷらの衣で揚げてみた。

いま思うと春巻きのように衣がないままでも良かったのかもしれないが・・・それはそれでなかなかに美味。
皆に好評なものができた。

こうして書くと凄くシンプルに出来上がったように感じる。
実際行程はシンプルなのだけれど、面倒くさい作業があった。

サバの骨抜きだ。

食べやすい大きさに切り分けてもサバはしっかりした骨が残る。焼き魚ならいざ知らず、かぶりついて食べるものを口の中から骨をいちいち取り出すような不快な食べ方をさせるわけにはどうしてもいかなかった。

そんなわけで人生初のサバの骨抜きに挑戦する羽目になった。

何度も食べているからありそうな位置は把握している。
けれど、生の身から骨を抜き取るのは思うほど容易くはなかった。

頭の中にサバの骨を抜く工場のラインで働く女性たちのことが過ぎる。
きっとそんな高くない賃金なのだろう、とか。
ピンセットで取り除くとはなかなかに熟達しないといけないものかもしれない・・・とか。

あるはずだ、と思う場所を手で探る。
触れたものを片っ端から引き抜く。
多少身がつくこともあるが気にしていられない。取れた身は戻らない。

ちょっとした硬さや違和感があるのに、その本体である骨が見つからない。諦めて次のフィレに取り掛かる。

酒風呂に戻ったフィレは少しくたびれた様子だった。

そうして2個目、3個目と最後のフィレに向き合ったとき、ようやくわたしは納得する出来映えを前に満足を味わっていた。
手の中のサバは、ぐったりとした様子でわたしの掌に身を預け、まさに「骨抜き」状態になっていた。

そうか、こういうことなんだ。「骨抜き」って。

仕上がった3個目を酒風呂に突っ込み、これまで妥協していた2個目までのフィレに再び向き合った。
少しでもしゃんとした感じがあるものは骨が残っているのだ。赤ちゃんでいうと首が座っている感じというのか。
他がぐにゃぐにゃでも首が座ると赤ちゃんは首を持ち上げる。

サバも、どんなにクタクタのヨレヨレでもしゃんとしている場所があったら骨があるってことだ。

うん、「骨がある」か。
見どころがある、という意味で使われるがきっとこれからもっとしっかりすると期待されての言葉なのだろう。赤ちゃんがこれから首だけでなく腰が据わって歩けるようになっていくように。

「骨抜き」は体感するとぞっとする。
単に惚れているという尺度を超えている。自分がない。自立していない。
恋愛や他の中毒性のものに溺れていて使い物にならない状態を「骨抜き」と呼んだりするけれど納得だ。

わたしは今日のサバの手触りを忘れることはないだろう。

「骨抜き」それは喜んでいられない事態かもしれない・・・

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写真はAMパパさまからお借りしました。
うちの夫も娘を連れて釣りに行きます・・・いずこも同じなんとやら?ご縁を感じ使わせていただきました。
ありがとうございます。

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