一事が万事
子どもの頃から何度も反芻して感嘆した言葉のひとつが「一事が万時」だ。
わずか一つの物事から、他のすべてのことを推し量ることができる、という意味でどちらかというと悪い意味で使われることが多いらしい。
でもわたしはこのことばをこの世の真理を表していることばのように受け取っていた。
同様に胸を打った言葉が「全ての道はローマに通ず」だ。
細かな状況は忘れてしまったが、このふたつの言葉は並ぶように代わる代わる脳裏に現れて、今起きていることの真理をみせてくれたように思う。
それはわたしが途切れることのない思考の世界を生きていた頃の話だ。今現在のように何も考えていない時間に生きることが可能になった今では辿ることができない道のりだ。
それでも、どちらの世界にいてもわたしは同じ道を求めているのだなぁとこのことばを見ると思う。
抽象的な感傷ばかり述べてしまっている。
例えとして正しいかはともかくわたしが今日感じたことを書いてみたいと思う。
山があるとしよう。
色んな山がある。地図を見て初めて名前を知る山もあれば、富士山もエベレストもある。
どんな山でもその頂上を極めた人というものは同じ景色を見ているのだとわたしは思う。
学校の遠足で行く山の頂上からの景色と、エベレストでは眼下に広がる景色もそれまでの苦労も比べようがないけれど、その体験に深く入って味わい尽くせば、瞬時に簡単に、とは言わないけれど同じものが見えると、そんなことを腹の底の深い部分で理解していた感じ。
感覚を超え、論理も超えた理解だから説明のしようがない。
どうして確信を持ったように言えるのかもわからない。
なにかひとつの道を究めた人たちは、それがスポーツであれ何かの研究であれ、どんな分野でもその人たちだけがみえる、その人たちだけが持ちうる境地のようなものがある。それが一番最初の感嘆。
わたし自身何か極めたわけじゃないけれど、ただ見ていて感じてわかったこと。
その境地に辿り着きたい、私もその世界が見たい。
そう思いながら何をやっても中途半端で何も形にできない、無力で無能な情けない自分を「価値がない」と嘆いて落ち込んだ時もあった。
それも結構あった。
だけど今日気付いた。
何かを極めるというのはなにも何か業績を指すわけではないということ。
「自分のいまの人生」を精一杯極めれば、それがもう道だということ。
そこから彼らが見ていたであろう景色を見ることが可能だということ。
いまの人生を極める、って「あんな人生だったら」「○○さんみたいだったら」って思っていたらできない。
まず自分の人生を認めて。受け入れて。感じ切ってこそ可能なんだと。
逆に言えばそうしたらスーパーでスペシャルな勲章みたいな保証付きな人生の人じゃなくても「てっぺん」からの景色が見られるはず。
啓けた世界が見えるはずなのだ。
根拠はない。
ただそうわかっただけ。
たくさんの賢者に会う旅に出たり、冒険によって何度も苦難を乗り越えたり、幾たびも生まれ変わったりしなくても。
たった一度。
この人生を味わい尽くして自分の人生の達人になれば、すべての転生の旅が終わるのだと、そんなことに深々と気づいた。今日の朝。
相変わらずうまくは書けないけれど、昔から事あるごとにわたしの前に現れていたことばが、新しい理解を伴って久しぶりに目の前に現れた記念に、今日の気づきの日記として記します。
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今日のお写真はsaraさんからお借りしました。
本当は縦に長い素敵なお写真なのです。サイズの都合でトリミングにしてしまうのが残念です。
ありがとうございます。