フォーカシングテクニックというより魔法のマントラで自主独立性を取り戻す
今からここに記すのはわたしの個人的な考察です。
わたしは自分自身の特性としてHSPであり、エンパスであり、また或いはインディゴチルドレンでもあるかもしれないと思っていますが、だからと言ってわたしがわたしについて書くことをその他の同じ特性を持つ人々に当てはめないでください。
また考察以上の意味を持つものではありませんので、どうぞ個人的に受け取らないでください。
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このところ面白いことになっていました。
心理的、身体的には全く面白くはないことですが・・・HSP、エンパスであると自覚したところ、更にHSPやエンパス的特性が強く発揮されたように感じられたことです。
どこまでが自分で自分じゃないのか、或いは自分だと思っているものは自分じゃなく「すべて」が自分であるのか・・・なんて全なるものを感じている状態なのかとまで思っていました。
というと良さそうですが、これはある意味グラウンディングできている状態で。
まだまだスイッチのオンオフどころか振り回されっぱなしなわたしは当然飽和状態でふわふわでありながらダウンという使い辛い状態が続いていました。
対策として何か意識に方向付けをするーつまり何か集中すべき仕事がある間は良いのですが、これは逃げて駆り立てていることに過ぎないのですね。
いつまでもは続かない。
noteに向かったりしつつ、
何が自分で何が自分じゃないのか。
HSPに自主独立は難しいのか。
特性を活かしながら生きることは自主独立と矛盾しないのか。
そして
自分は今才能を活かして生きているけれど、本当にやりたいこと、成し遂げたいことはなんなのだろう?
自分はどう生き、どう死にたいのだろう?
そこに思い至ったのです。
人生は1日の積み重ねとも捉えることができます。少なくともこの肉体にとっては。
人は朝いのちを得て生まれ、その日の活動の果てに2度と目覚めることはないかもしれない眠りにつくのです。
わたしはその覚悟がない。
なんて空しい1日を過ごしたのだろうと思う日さえあります。わたしの一部である客観視の視点は勿論それ以外の見解を持っていますが。
詳しいことは別の機会に述べることもあるかもしれませんが、わたしの1日はともかくとして、眠りにつく瞬間については全くと言っていいほどわたしの理想の死に適っていなかったのです。
理想の死の前に理想の生があるとすれば、わたしはどうしたらいいだろう。
どうあるべきなのだろう?
なにをするか、ではないことはわかっています。
人は目標があるとなにかをする方向へ自分を駆り立てたくなりますが、それは逃げだと思います。
或いは精神的に回避している状態というべきか。
本質的には在り方が先にあって行動は必然的に生まれるもの、そんな気がします。
どうあるべきか?
この問いがもたらしたものが答えなのかはわかりませんが、あることばが気づきとしてわたしの中にやってきました。
一度は完全に受け入れられませんでしたが、再び繰り返してやってきたそのことばをわたしは受け入れざるを得ませんでした。
「自分でフォーカスしたいものにフォーカスしている」
つまり人の恐れだとか、葛藤だとか。
周囲の苛立ちだとか。
花たちの様子に投影されている感情だとか。
トランスパーソナルなものも含めてすべて。
言い換えると好き好んで影響を拡大しているという感じですね。
こういうと反論する方は勿論いらっしゃるでしょう。
そうです、刺激に対して敏感なのは不可抗力なのです。
でも人を「読む」仕事を選んだのは自身ですし、余分な刺激を減らすどころか増やしてしまっていたのもわたしの場合は事実だったのです。
特にエンパス的な部分は努力すればコントロールが効く部分です。
当時自分がエンパスか確信がなかったのと複雑すぎる内容でトレーニングすら諦めていましたが・・・。
そしてわたしのような事情がない方にもおそらく当てはまるであろうこと、「受け取った刺激を反芻する必要はない」のに持ち続けてしまっていたということも。
あとこれが最も大事な部分ですが、受け取った影響(刺激)をどう扱うかという部分において、わたしたちには主権があると思ったのです。
物理的な刺激に関しては言わずもがなですがー
感情的な余波についてそれが「自分自身によるものではない」と関知することができたならば、それに対して選択することができると思うのです。
つまり
「すべては流れゆく」
という態度。
自分自身に起きる物事に対してわたしはこのスタンスですが、おなじことだと気づいたのです。
そして、とっておきの魔法の呪文。
「どうでもいい」
もひとつ追加で
「マジうける~」
「どうでもいい」とかことば自体が刺さるのですが、深刻な時ほどよく効きます。
実はこれ、わたしの人生の師の一人からスクールで教わったものです。
ご縁のある方が目にしてくださっていたならば、今頃思い出し笑いをされているでしょうか。
素晴らしいダンスがついていて、踊りながらやるとさらにマントラ並みに効果的なのですが、動きは「マジうける~」のノリからお察しください。
マントラですから一度ではなく繰り返し唱えます。リズムが肝要です。
「どうでもいい♪ どうでもいい♪ どうでもいい♪ マジうける~↑↑↑」
このように組み合わせても効果的でしょう。
さて、言いたいのは「わたし」は「感情」ではない、というのがひとつです。
それだけの存在ではないのです、人間というものは。
勿論「思考」でもありません。
わたしがなにかにフォーカスすることで、或いはフォーカスすらしなくても色々な情報を受け取ることは不便さのなかにも有益でもあることですが、そこに振り回されて、能力に使われていた時点で不自由なわけです。
意図して使うのでなければ能力の奴隷も同然です。人生苦しいわけですね。
1日かけてHSPのなんたるやを考えている時点で思考の奴隷以外のなにものでもありません。
いまの自分は不自由な存在なのだと気づいたのです。
世の中にはHSPであることを知ったうえで、本当にわかりやすく、しかも柔らかで繊細な文章で訪れる「敏感で繊細な人々」を導いてくださる人々がいるというのに。
あれだけ文章をまとめられるのは客観性を得ているということです。つまり自由を得ていらっしゃると推察します。
わたしもここを乗り越えたい、と思いました。
なににフォーカスするかを選ぶ。
この意識がもたらすのはグラウンディングとセンタリングです。
HSPやエンパスの人を助ける意識状態と言われていますが、すべての人が自分自身であるために必要な状態だと思います。
グラウンディング自体、ひとつのスキルみたいなところがあって、慣れないうちは練習が必要だと思います。
そしてHSPやエンパスはグラウンディングやセンタリングの状態を失いやすいと思うのです。
特にエンパスの要素が強い人は、何かに習熟した人たちといるとすごくうまくいくのですが、環境が変わると「あれ?」という事態になります。安定とか軸とか、そんな言葉も聞いたことあるねぐらいになってしまいます。
そんなときグラウンディングしようと思うより、自分が主権を持つ意識になった方がグラウンディングしやすいように思います。
自分の中に今あるものをみつめる。
自分のものならばそれはいまあるものなのか、そうじゃないのか。
いま起きていることならば認めて、受け入れて、味わう。
そうじゃないなら、いらないなら手放すし、持っていたいならいまそう思っている自分を見つめる。
・・・なーんてしなくても「どうでもいい」とか「マジうける~」とか笑ってみる。
もし自分のものじゃないなら・・・自分のものじゃない、と認めよう。
それを拾っただけじゃなく抱え込んでいたなら、やっぱり抱えている自分を見よう。やることは一緒。
「どうでもいい」ダンスだ。
そして意識する。
自分が何にフォーカスしていたいのか。
感情に揺さぶられて、思考に惑わされて、人生のドラマを味わっていたいのか。
クリエイトしたいこと、成し遂げたいことがあるのか。
もし後者なら、そうなっている自分にフォーカスしようじゃないか。
その方が、ずっとずっとワクワクする。
そんな風に思ったのです。
とりとめもない文章ですが、これがHSP的感傷に浸るわたしのひとつの区切りとなるでしょう。
駄文なのでまた編集を加えるかもしれませんがこれにて。
お付き合いくださった方、ありがとうございます。