魯迅『故郷』を呼んで
これは学生の頃の感想文です。アップしてみます。
この作品は、子供から大人になる過程で必ず迫られる社会へコミットメントと身分による分断を受け入れなければならなかった悲しさを描いていると感じた。
ルントーは主人公に対していつまでもよそよそしく振る舞うが、これはルントーもシステムに組み込まれているのであるからに他ならない。
このとき、ルントーの態度に対して主人公は何かを言う資格はない。なぜならルントーが置かれている社会的条件のもとに主人公の高官としての立場があるからである。
このとき感じた「悲しむべき厚い壁」はまさに社会そのものである。
大人になれば敬語を使わなければならない、高官に対しては無礼があってはならないという最低限の決まりがあるわけである。これは、仮に革命が起きてシステムが変わったとしても、そこに社会があるというだけで、どうしようもなく避けがたい問題である。
灰の中の椀や皿の件でも分かるように、かつては「豆腐屋小町」とよばれたヤンおばさんですらこのありさまである。
そんなことは絶対に叶わないと知りながら希望を持ってしまう自分自身を客観的にとらえ、主人公の希望のことを手製の偶像と揶揄しているのである。
この小説の題名にもある通り、故郷はいざとなったら帰ることのできる場所でもあり、これを失いつつある主人公のむなしさは図りきることができないだろう。故郷から遠ざかりつつも、それが心の支えでもあったわけだが、現実を突きつけられた主人公は故郷の代わりに、若い世代の新しい生活に希望を持たずにはいられない。
現代日本社会においては、「無駄の積み重ねで魂をすり減らす」私や貧困にあえぐヤントーとヤンおばさんのような社会というシステムに苦しむことも想像できなければ、「やけをおこして野放図のように走る」生活を選び取るわけでもないが、私もこの社会を生きる人間の一人として、このむなしさをどうしても感じてしまうのである。
寂寥感が主人公の心境に起因することは主観的な見方であることを示唆しているようだがここでは深くは考えないことにする。