7センチのハイヒール
大学を卒業後、私が初めて就職した会社には、制服があった。
新入社員研修では、新品の制服が与えられ、そして会社から指定された高さ5センチ程のヒールの黒い靴を、別途持参した。
今ならば、ヒールの強要は#KuTooで批判されてしまうだろうか。
研修では、慣れない場所での大勢の人との共同生活が続き大変だったが、何よりも慣れない靴を一日中履いているため、足が痛くてたまらなかった。
靴が合わないのではなく、ヒールのある靴を履くことに、私はまだ慣れていなかった。
その後、正式な配属部署では制服着用が不要だったため、私がその会社の制服を着たのは、結局その新人研修の時だけだった。
会社を辞める時、綺麗なままの制服を返却したので、少々驚かれた。
それからは制服が与えられた事はないので、あれは一生に一度だけだったのだなぁと、ほんの少し感傷的な気持ちになったりする。
ドイツに来てからも、もちろん制服はなく、ジーンズやスニーカー等のカジュアルすぎる服装は禁止されていたが、日本よりもずっと自由だった。
しかし、私はちょっぴり背伸びをしてオトナの女性を演じてみたくて、多くの日々をスーツとハイヒールを履いて過ごした。
その頃私は、7センチくらいの高さのハイヒールをよく履いていた。
背の小さい私は、少しでも大きくなりたかったのだ。
高いヒールを履いて会社を歩くと、ドイツ人の同僚が声をかけてくる。
私の大好きな同僚の一人マルティナは、まるで一人芝居かのように、一気にそんな言葉をズラリと並べるので、聞いている私の方が照れて真っ赤になる。
私は決してブランド物の靴を履いていた訳でもなく、素敵だと褒められるような靴でもなかったのだが、マルティナはいつも私の靴を褒めてくれていたのだ。
快適さを優先し、好きなハイヒールが履けなくなる?
たしかにハイヒールは、スニーカーとは違う。
その痛みは、あの新入社員研修を思い出す。
しかし、履き慣れてしまえば、それほどの負担ではない。
私はその時には、マルティナが言った事を、それほど実感する事はできなかった。
ハイヒールを履いて社内を走ると、こらDito!走るのをやめなさい。捻挫するわよ!とからかわれた。
そして、あれから20年ほど経った今。
気が付くと、私の靴箱にある靴は、ほとんどがヒールの低いものばかり。
数足だけ、お気に入りのハイヒールを、飾るようにして置いている。
そう、今はそれらのハイヒールは、まるで置物と化してしまった。
いつの間にか、私も楽な靴ばかりを選んでいて、時々大好きなハイヒールを履くと、足が痛くなる。
この間、ランチを食べながら靴の話をすると、マルティナは、ほらね、私の言った通りでしょう?と自慢げに大きく笑った。
マルティナは、何でも知っている。
それは、仕事の知識だけではない。
彼女は、私がかつてオトナの女性に憧れてハイヒールを履いて仕事をしていた事も、仕事が上手くいかなくて、トイレで泣いていた事も、何でも知っているのだ。
Ditoは真面目すぎるのよ、もっと気楽にやりなさい、そしてもっと私達を頼りなさい!と背中をさすってくれた。
一人では仕事が出来ないことを、そうやって少しずつ、彼女が教えてくれたのだと思う。
彼女と一緒に仕事をして、一緒にカーニバルの仮装をし、会社の帰りにはケーキを食べに行った。
ランチを終えて、ライン川沿いを散歩することにした。
マルティナは、私の肩をグイっと引き寄せて、小さな声で囁いた。
お世辞だと分かっていても、マルティナからの言葉なら、何でも嬉しい。
私達は頬を寄せ合い、そしてギュッとハグをした。
マルティナのハグは、いつも柔らかくて、温かい。
私が旅行の話ばかりする癖は、マルティナからの影響だ。
ドイツ人は旅行のために働く、という典型的なドイツ人あるあるについても、私はマルティナから学んだと言ってもいい。
年金生活を始めたマルティナは、一年中あちこち旅行して、旅先から大量の写真を送ってくれる。
一日を楽しく過ごす。
毎日を楽しく過ごす。
誰かを笑わす。
そして、自分も笑う。
それが大切な事だと教えてくれたのは、マルティナだ。
ハイヒールを履き、颯爽と歩く女性に憧れていた私。
それが、オトナの女性だと思っていた。
しかし私はもう、オトナ以上に大人になってしまった。
見かけだけ格好付ける事よりも、本当の自分の幸せは何か、だんだんと分かってきた。
それは、カッコいいハイヒールと比較すると、ぺったんこな靴が与えてくれる快適さにも、どこか似ている。
7センチのハイヒールが履けなくなっても、太陽のように笑っていたマルティナ。
私も、7センチのハイヒールが履けなくなっても、今こうして笑っていられる。
私もまた、私らしく、そして心地良く生きられているからだろう。
それは、私に大切な事を教えてくれた人生の先輩のお陰だと思う。
8月生まれのマルティナは、向日葵が似合う。
向日葵のように陽気で元気で、周りにエネルギーを振りまいてくれる。
スイスの雪山の中に立つ、彼女の写真が送られてきた。
彼女が次の旅行先だと言っていたのは、スイスだった。
飛行機嫌いなご主人との旅なので、スイスまで電車を乗り継いで行くのだと、子供のような無邪気な笑顔で話してくれていた。
写真はきっと、ご主人が撮ったものだろう。
大雪原の中、マルティナは向日葵のように眩しく笑っていた。