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アイゼナッハ②2つの博物館

アイゼナッハでは、お城の他に、二つの博物館を訪れた。
一つ目は、ルターハウス。
ルターは、1498年から4年間、ラテン語を学ぶためにこの街に滞在した。
その時の滞在先が、コッタ家。
今はその家は、博物館として残されている。

別の角度から見ると大きな似顔絵がある

ルターの暮らした部屋、そしてルターの偉業について視覚的に分かりやすく説明されている。

かつては、手書きで書かれていた聖書。

そして、こちらはルターの翻訳した聖書。

活版印刷の普及により、本の価値というものは急速に下がった。
活版印刷については、マインツのグーテンベルク博物館の記事をご参考。

こちらの図は、聖書の価値について分かりやすく説明されていた。
1456年には、1冊が牛14頭もの価値があった聖書は、1713年には牛1頭で36冊の聖書が買えるようになった。

十戒には「汝、いかなる彫像をも汝のために造ってはならない」とあり、宗教改革の合間には教会の偶像破壊を行う宗派も多かった。
ルター自身は、偶像は禁止しない方針だったようだ。
聖マリアは被害を逃れているが、マグダラのマリアは、その顔を潰されてしまっている。

聖人の中に祀られるルター

ルターが生活していた当時が再現された部屋。

この木材はこの家で最も古く1269年の物。
再建の際に見つかったそう。

ルターは音楽教育を受けた事も有名で、数々の讃美歌を残した。
そのため彼を、説教する作曲家と喩える人もいるそうだ。
彼は音楽とお酒が好きで「酒と女と歌を愛さない者はバカものだ」と言っていたそう。

ルターの詩には、バッハが音楽を付けたものもあり、館内ではその音楽を聴けるブースもあり、落ち着いた気持ちでその音に耳を澄ます事もできる。

少年の頃のルターを描いた一枚

ルターの聖書主義。
贖宥状の存在に疑問を投げつけた、95ヶ条の論題。
それがきっかけとなり、彼は身の危険を感じ、ヴァルトブルク城に匿われた。
そして、万人に分かるようにと、ラテン語で書かれた新約聖書をドイツ語に翻訳した。
館内には、12の言語で翻訳された聖書が展示されていた。
このような翻訳の突破口であったのは、ルターに違いない。

彼の主張はドイツ主義とも言われ、彼は強い愛国者であり、また反ユダヤ主義でもあった。
二つに分かれた館内の一方は、反ユダヤに関しての展示スペースだった。
反ユダヤ主義は、ナチスドイツの時代に再度脚光を浴び、ルターは彼らの広告塔のような存在として、担ぎ上げられてしまった。

アイゼナッハのユダヤ人人口推移。

強い光には、より暗い影が伴う事を感じざるを得なかった。


二つ目の博物館は、バッハ博物館。
1685年3月31日、バッハはアイゼナッハの街で生まれた。
博物館とバッハ像。

この近代的な博物館の隣にある建物が、バッハの父が購入したという建物。
バッハが生まれたのは、さらに別の建物だったらしいが、既に残っていないそう。

入り口では、金色のバッハ像がお出迎え。

音楽一家、バッハ家の家系図。

館内には、当時の生活の様子や、数々の楽器が飾られている。

台所
子供部屋

また、音楽視聴コーナーは、じっくりと音を楽しめるように整えられている。

バッハの彫像と頭蓋骨模型まで

特に印象的だったのは、館内にある古楽器を弾いて聴かせて下さった事だ。

ルターの詩に音楽を付けたバッハ。
ルターに関する資料も、館内に残されていた。

綺麗に手入れされた中庭には、薔薇が咲く。

博物館の展示物だけで比較すると、ライプツィヒのバッハ博物館のほうが、情報量が断然多い。
やはりライプツィヒは、実際に彼が長年活躍した街と場所であるから、情報が多いのは当然といえば当然だろう。

館内で、クリスマスオラトリオが流れ始めた。
その旋律は私に、ライプツィヒのトーマス教会でのクリスマスコンサートを思い出させた。
あの時の感動を思い出し、私は身震いするように鳥肌が立ったのだった。 
バッハが生まれた地をこうして訪れる事ができたのは、かけがえのない経験だった。

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ライプツィヒのバッハ博物館については、こちらから。

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