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「教わる」ではなく「学び取る」姿勢

大学院は秋学期の授業が終了し、いくつかのレポートを残して私も冬休みに入りました。今は日本に一時帰国し、最近会えていなかった多くの人と再会しながら静かな年末を迎えています。

さて、最近このnoteも社会課題や政治のことが中心でなかなか留学や大学院の話を書けていませんでした。今日は私が学びを最大化する上で大切にしているマインドセットについて書いてみたいと思います。


授業に対する不満

私がハーバードに留学して少し驚いたことの一つに、授業に対して不満を抱える人々が思った以上に多かったことがあります。

「ハーバード大学」といっても、そこで教える教授全員がマイケル・サンデルのように軽妙でわかりやすく、人を惹きつける喋り方を体得しているわけではありません。当然、教えている科目に関する知見は皆さんピカイチなのですが、だからといって「教える」のが上手い人ばかりではないのです。

そのためか、生徒からよく聞くのは、「教科書的なことばかりでつまらない」「折角こんなに授業料を払っているのに面白くない」などの不満です。

もちろんそのような不満は理解できますし、実際に学費は異常に高いわけで(1年間で1千万円近くかかります)、妥当な懸念だとも思います。(ちなみに、そのような不満は受講者に課される授業評価アンケートで大学側に提起することができ、その結果は個人が分からない形で次年度の学生に共有されるため、あまりにも低品質の授業は人が集まらずに授業が成り立たなくなる、というようなシステムは一応存在します)

ただ、正直私はそういった不満を抱えた記憶があまりなく、そのような不満をよく言っている学生を見ると、「なぜこの人はこんなに不満が出てくるんだろう」「なんだかストレスを抱えていて大変そうだな」と不思議に思うことすらありました。

これに対する答えは、私がそれらの学生たちと異なるマインドセットを持っている、すなわち授業に対して何を期待しているかが異なるということだと思っています。

「教わる」ではなく「学び取る」

一言で言えば、私は「教わる」のではなく「学び取る」「学びを見つける」という姿勢で授業に臨んでいるのだと思います。具体的に言えば、「この75分間の授業時間の中で自分が学ぶことができるものが3つあるとしたらそれはなんだろうか」と学びを自ら見つけに行く姿勢で授業時間を過ごしています。

もし、授業を「教授から何か新しいことを教わる場」だと捉えた場合、授業からの学びは教授が話したこと以上に膨らみようがありません。教授がたまたま自分のためになることを教えてくれたのであれば良いですが、少しでも期待と異なると、その時点で「この授業からの学びはなかった」ということになってしまいます。それこそ一番勿体ない時間の使い方なのではないでしょうか。

それに対して私は授業を「自分が75分間集中して、この場から何かしらを学び取る場」だと捉えるようにしています。その「学び」には教授の話すことももちろん含まれますが、それ以外にももっと沢山のことが含まれるのです。


教授の話す内容が面白くなくても、教授の話し方はとても効果的で聞き取りやすいかもしれません。そういう場合に「なぜこの教授の話し方は聞きやすいのか」を考えると、たとえば「話すことを構造化するのが上手いな」とか「自分の考えを2,3語の簡潔な言葉で名付けるのが上手いな」とか、そういった学びが生まれるかもしれません。

教授の話す内容が面白くなくても、教授がふと口頭で紹介した本やウェブサイトを検索してみたら、授業よりも面白い内容がそこにあるかもしれません。

教授の話す内容が面白くなくても、学生の一人が自分の関心に近いことを発言していたら、授業後に話しかけることで同志が見つかるかもしれません。

教授の話す内容が面白くなくても、自分が関心のあることをクラスにうまく質問する事ができれば、クラスメイトや教授からためになる回答が返ってくるかもしれません。

教授の話す内容が面白くなくても、学生が良い質問をしていたら、「どうやったらそんな思考ができるんだろう」と考えることで、他の授業の際にその思考法が応用できるかもしれません。

教授の話す内容が面白くなくても、「なぜ自分が面白いと感じないのか」を深ぼってみることで、自分が将来するかもしれないプレゼンやスピーチで聴衆を惹きつけるのに役立つかもしれません。


このように、後半は少しメタなものを挙げましたが、ポイントは一つだけで、捉えようによって、考えようによって、授業はいくらでも学びの機会に「変える」ことができるのです。

この姿勢は、授業の度に「今日の授業はよかった/悪かった」という二択の評価をしている間は決して達成できません。

日頃から「何を学び取るのか」を自分自身に問い続け、授業の度に「今日この授業時間から自分は何を学び取ったのか」を自分に問うことが重要です。

あらゆることに応用可能な「学び取る」姿勢

そして、この主体的に「学び取る」姿勢は講義以外にも色々なことに応用可能です。

たとえば、授業で筆記課題が課された際も「課されたから書く」のではなく、「この課題という機会を使って何を学ぶか」を考えるようにします。

たとえば先日、「ビジネスと人権」の授業で最終課題として「どこかの政府/企業/国際機関などを一つ選んで、その団体がビジネスと人権をどう推進していくべきか提言しなさい」という問いが与えられました。

もし「課題として課されたから書く」という姿勢であれば、私は自分が既にある程度詳しい日本政府のビジネスと人権に関する取り組みを取り上げて、テキトウに提言をまとめていたと思います。それが一番楽で、効率よく単位を取れるからです。しかし、それではその課題を終えたときに何を学んだかと言われると、正直書く前との大きな知識の差分はなくなります。

そこで、折角課題が課されているのであれば、その機会を使ってこれまでに考えたことなかった題材を深ぼってみると、多くの発見があるはずです。実際私はその課題では日本政府ではなくトヨタ自動車を取り上げ、同社が行うサプライチェーン上の労働者搾取防止の取り組みを新たに調べて学んだ上で、その改善策を提言しました。これによって、新たに「プチ専門家」として語れることが一つ増えましたし、将来的にもしこの分野でコンサルティングすることがあれば、いつでも見返すことができるようになります。

健全な自責思考

この姿勢は、実は授業だけでなく留学そのものについても、何なら仕事についても常に当てはまる話です。結局、「あなたがその経験から何を学び取るのか」が重要なのであって、他人に学びの責務を任せていては、いつまでたっても学びは最大化できません。私はこれを「健全な自責思考」と呼んでおり、勉強でも仕事でも大切にしています。


と、ここまでまるで「不満を言うのが悪」であるかような書き方をしてきましたが、決してそんなことはないということも強調しておきます。不満も不満で、きちんと提案やフィードバックにつなげることができればそれは建設的であり、PDCAを回すことにつながります。授業の例であれば、不満を上手く教授やTAに伝えることができれば、次回から授業そのものの学びが増えるかもしれません。それはそれで素晴らしいことです。

また同時に、精神的・時間的に余裕がないときは主体的に「学び取る」姿勢というのは負担が大きいのも理解しています。つらい時には不満を吐くことも大事です。

その上で、やはり「教わる」のではなく「学び取る」姿勢を持つことは健全に向上心を持って生きていく上で何においても大切だと思っているので、今日はその考え方を紹介してみました。「そんなの当たり前だよ」と思う方もいるかもしれませんが、それでも一部の方の学びの最大化のために参考になればと思います。

ではまた。

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