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「間違い探し」の聴き方で「ブルックナー沼」へ近づくことになるとは。

ブルックナーの交響曲における「稿」とか「版」とかいう「バージョンの違い」はブルックナーの交響曲が何か難しいものであるという原因のひとつを作っている。

今回、ブルックナーの交響曲第8番が、「良く演奏されるバージョン」ではなく「滅多に演奏されないバージョン」で演奏されるという貴重なコンサートを聴きに行くにあたり、“いつもとは違う聴き方”で臨んでみたのだが、それは底が全くうかがい知れない「ブルックナー沼」の淵へと歩みを進めるものとなった。


今回聴いた音楽は

ブルックナー/交響曲第8番 ハ短調(初稿/1887年)
 指揮:ファビオ・ルイージ
 演奏:NHK交響楽団
 (第2016回 定期公演 2024年9月15日 NHKホール)

”いつもと違う聴き方”とは
「間違い探し」の聴き方
である。

普段、わたしはそのような聴き方はしない。「間違い探し」の聴き方と聞けば、まるで奏者のミスを探したりするような感じだ。そして指揮者コンクールでは曲のある部分をわざと間違えて演奏させ、指揮者にそれを当てさせる、という間違い探しクイズのようなことをやるらしいのだが、まるでそのコンクールの審査員のような聴き方である。

コンクールの審査員はそのクイズの答えを当然知っているわけだが、わたしは今回演奏される「滅多に演奏されないバージョン」が、「良く演奏されるバージョン」と具体的にどこがどう違うのか、ということ、つまりクイズの答えを良く知らない。かなり違っているという情報だけである。

なので、今回は敢えて予習をせず、そのコンサートでそのクイズの答えを発見してみよう、ということにした。

この試みを実施すると決めてからは、コンサートが始まる前まで、なんだかいつもと違うワクワク感が続いていた。「どんな間違いが発見できるのだろうか?」「果たしてそれを発見できるのか?」

予習したくなる気分を抑えながらもコンサート当日を迎えることになった。

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ここでようやく、バージョンに関しての補足だが「滅多に演奏されないバージョン」とは、ブルックナーが1887年に最初に完成させたバージョン、いわゆる「第1稿(初稿)」。そして「良く演奏されるバージョン」とは、それ以降にブルックナーが改訂したバージョン、いわゆる「第2稿」である。

また「間違い探し」と表記してきたが、当然のことながらブルックナーは決して「間違えた」作品を作ったのではないから、実際は2つのバージョンの「違い探し」ということになる。

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さて、そのコンサートでの「間違い探し」、いや「違い探し」が始まった。

第1楽章からさっそく大きな違いが出てくる。答えを知らないから明確に「ここがそうだ」ということではなく「良く演奏されるバージョン」に比べて「おや?」という感じがするのである。

耳慣れない響きや楽器の使い方、和音が意外に耳に付き、なにか不思議な感覚で音楽が進んで行くことが、普段は行わない「違い探し」の姿勢で聴く面白さ、そして醍醐味であろう。

第1楽章は、静かに終わらずに高らかに音楽が鳴って終わるし、第2楽章も違和感ある和音があちこち聞こえる。ゆったりと進む長い第3楽章ではシンバルが3回、2度も鳴り響くところがあり驚いた。

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「違い探し」の姿勢を続けていると、そのうち頭に浮かんで来たのは「なぜ、ブルックナーはここをこのように変更したのか?」という疑問である。

この「滅多に演奏されないバージョン」が完成した時、ブルックナーは「ハレルヤ!」と記した手紙をしたためたほどの喜びようで、もうさっそく次の交響曲第9番の作曲に取り掛かっている。

そのくらいの自信作である交響曲だが、手紙を受け取った主である指揮者ヘルマン・レーヴィからは演奏不可能のコメントが寄せられてしまう。

これまでの作品でも改訂作業に明け暮れることもあったブルックナー。「またか!」と相当な悔しい気持ちになったことだろう。

ブルックナーは、もう度重なる批判に慣れてしまったのか、第8番の改訂作業に取り掛かり「良く演奏されるバージョン」が誕生することになる。

ブルックナーが相当な自信家であったのなら「これが私の音楽だ。この通りに演奏しもらわなくてはならないのだ」と言うこともできたはずだが、今回「滅多に演奏されないバージョン」の違い探しを行ってみて、やはり「良く演奏されるバージョン」の方が洗練されて訴えかけるものが多い音楽になっているのは間違いない、とわたしは感じたのである。

ブルックナーも改訂作業を「ああ、ここはこうしたほうが遥かにいいじゃないか」と思いながら進めていただろう。

しかし「滅多に演奏されないバージョン」は、例えば今でいう現代音楽のように従来の音楽との比較ではちょっと違和感を感じるような、先進的な試みを取り入れていたともいえるのではないか。

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長すぎるとの批判もあったブルックナーの最初の思いが込められた約90分間は意外にもあっという間に過ぎた。

「違い探し」の聴き方は、違いという違和感からの発見が多くできて面白く、刺激的な体験となった。

「おや?ここは違っているのでは?」の連続は、なにか別の曲を聴いているような錯覚を覚えたし、じつは「良く演奏されるバージョン」についても、今まで気がつかなかったような部分がまだまだ存在していることを気付かせてくれた。

ブルックナーのバージョン違いは、小さい違いだけのものも多いのだが、大きな違いがあるのは第8番以外では第3番、第4番であろう。こちらも「滅多に演奏されない」バージョンの演奏会があれば足を運んで「違い探し」をしてみたい。

わたしがこのように「ブルックナー沼」の淵へと歩みを進めているとは、少し前では考えもしなかったことである。

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ファビオ・ルイージがフィルハーモニア・チューリッヒを振って録音した「滅多に演奏されない」バージョンのCDがある。


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