幾何学思考からの脱却 非線形的な足し算へ
(西洋)哲学
地方のお祭り的なもの。それ自体に価値があるが、普遍性あるものとして扱ったり、推論群の基盤となるものではない。
引用するときに、他の人文諸学なら「少し長いが」と前置きしそうなほどの長さを引っ張ってくる。
それは「平行性」とも言える様相で、採用している「公理」、つまり話し手の常識や好みによって決まる前提を共有できていることを示すため。
単語やフレーズ単位の引用ではその引用元の思考を再現できない。短文であっても同様。
一般書での合計で半ページから数ページになるほどの分量を引用するのは、話し手と引用元とで共有できている「公理」から「定理」を導き出している様子を示せるのがそのくらいの文量だから。
補強や具体的な記録などではなく、あくまで自分と同じようなことを言っている哲学者、つまり自分と同じ公理/前提/常識/好みを持って論理的思考を積み重ねた人が存在することを示しているにすぎない。
経済学
モデル構築の連続
前提の置き方の行ったり来たり
生物学・進化論
3/4仮説のおかしさ
血縁淘汰のまともさ
【個体のある形質が,祖先が同じで同じ遺伝子を分けもつ子ども以外の近親の生存と繁殖に対して,有利または不利に作用するとき,こうした形質に働く淘汰を血縁淘汰といい,血縁選択ともいう。社会生物学の基本的概念の一つ。】
例外を見つけるごとに言及範囲を狭めることしか出来ない「収れん進化」
【系統が異なる複数の種が,同じ環境下に生息してその環境に適応した結果,独立して類似の形質や機能を獲得する現象】
総論
モデル志向
幾何学思考=演繹思考=モデル構築への志向
単線的な思考の流れ→数学、論理学
いくつかの変数→物理学
経済学が分かりやすいが、どの学問も多くの変数を導入して、入力に対して「単一の正しい」出力をする「モデル」を構築しようとする。
しかし、学者の中で公理/前提を完璧な形で共有できているように見えない。特に(西洋)哲学・経済学・生物学で。
共通善、政治目標、平等、の定義
個人のふるまい方、時間スケール、意思決定プロセス、の定義
利他行動、種、の定義
種の定義に関しては、分野において適した定義を選択するよう気を使うらしい。
しかし、哲学は各々の好みを押し付け合っているように見える。
経済学はその時代その時代で一番現実に近いものが選ばれている。
いずれにせよ、演繹モデルを理想とした広い意味での「単線的」な思考様式に見える。
非学問領域への浸透
この流行りが日常の場面にも浸透しているように思う。
「理由」を探す時には、一つ大きな理由が探される場合が多い。
例えば吉田寮の騒動に関して、家賃の安さに言及する声が、全くの部外者には多かった。
これは建前は文化で、本音は家賃という「裏と表」という考え方を表象している。
一つの行動に対して単独の理由で説明しようとするのは、まさにモデルに入力して一つの出力を得る過程そのものだ。
実際のところは、家賃、文化、愛着、反骨心が入り乱れ相互に影響しながら、非線形的に足し算されたものだろう。
文化的な側面と家賃の側面、そのどちらが欠けていても大きな反抗運動はなかっただろう。
非線形的な足し算・引き算
一人の健康を、病理学だけでなく栄養の観点からも見るようなこと。
自然選択のアイデアを強くとらえ過ぎず、エキソン上の突然変異の新たな見方を導入し、おそらく遺伝的浮動の地位をも押し上げた中立進化説。
どちらも考え方としては「例外のない演繹モデル」というよりは、新しい判断材料が降ってくるたびに、着地点が動いていくと捉える、目標ありきの「非線形的足し算モデル」という感覚に近いと思う。
私が吉田寮の例で伝えたかったのは、行動と理由の一対一対応で捉える思考ではなく、材料をなるべく多く勘案した上での足し算・引き算的な、閾値を超えるかで行動が決まると考える思考様式の提案だ。
これは全ての「変数」に対応したモデルを構築するということではない。
新しい「変数」に際して、モデルの再構築を行うのではなく、行きつく目標/着地点の移動という形で受け入れることだ。
幾何学思考⇔非線形的足し算
幾何学思考は公理/前提を最初に設定し、そこから定理を導いていく形で、その分野を丸ごと完璧に記述しきろうとする。
しかし、「非線形的足し算思考」は目標/着地点を最初に設定する。
それは健康であり、より包括的で妥当性の高い進化論であり、そして吉田寮をめぐる騒動で言えば各関係者の心情への寄り添いと妥協点の模索だ。
この思考法と相性がいいのは、「変数」が多すぎて影響度が低いと判断される要素の捨象を余儀なくされている分野だろう。
学問的な領域で言えば、哲学、経済学、生物学の一部、そして気象予報などであり、
日常的な思考で言えば、行動理由の説明や、説得のレトリックなど。
「この世は弱肉強食」だから○○、ではなく「弱者を助けなければならない」かつ「自立も促さなければならない」から△△、といった言い回しへの移行を提案したい。
法則ありきではない世界観を推奨したい。
意見の相違の理由
また、意見が合わないときに、「相手は論理的思考能力が欠如している」か「情報収集が不足している」のどちらか、あるいは両方だと考えがちだが、そうではない場合も多いのではないだろうか?
同じ図、表、意見を与えられたとき、つまり同じ知識を持っているときは同じ結論を得るもの、という暗黙の了解が存在している。
しかしこれは単線的な世界観への信頼が厚すぎる。
人は他人と同じ公理/前提を共有できていると思いがちだが、実際はそうではない事の方が多い。
例えば「感情論抜きで」とか「合理性」ということばは、理知的な営為は皆に共通した形態を持つことを前提としていることを示唆する言葉遣いだ。
しかし、一口に合理的な行動と言っても、金勘定を念頭に置いている人もいれば名声を重視する人もいる。
どれか一つを追求するにしても絶対に超えないラインの引き方も異なる(友人関係は壊さない範囲など)。
「合理性」という言葉から想起されるニュアンスは人によって微妙に違っている。
前提部分の不一致と互いの不理解が結論の相違を作り出している場合もある。
芸術鑑賞などでは、このような「前提の不一致」は了解されている。感性は人それぞれという文言で済まされるわけだ。
私はそれが、より実際的で実生活に関わる意見の相違に、考えられているよりもはるかに多くの領域、場合で「前提の不一致」がくい込んでいるように思う。
枕詞・言葉尻
他に相性がいいのは、他の言葉の接頭や接尾にくっつきがちな分野である。
「大相撲の経済学」「会社法の経済学」「AIの経済学」と、○○の経済学という言葉は無数にある。
それは、変数の捨象の仕方とモデル構築の複雑さとの妥協点の模索が、その手の言葉の増殖を促しているのだと考える。
題材の数だけモデルがある、という見方がされるのだ。
哲学や進化という言葉も同様に、いろいろな単語と簡単にくっつく。
それも○○の経済学の場合と同様の理由(が大きい)だと思う。要素の多さとそれ故の外格の多彩さが元凶だ。
他には心理学/精神分析も他の単語と一緒に使われる。脳神経科学は発展もすさまじいが、未解決な領域も大きい。
まだまだブラックボックスな心の動きは、モデル構築の格好の的なのだろう。
そしてこれは日常的な言い回しにも影響している。
血液型占いくらいなら話のネタになるだけだが、性格診断と言われる範囲では、やはりモデル構築的な思考が無批判に受け入れられている。
その日の気分や新しい価値観の受容は「性格が変わる」で片づけるのに、ひとたびあるカテゴリー分類されれば、そこでの例外的な行動は軽視されがちだ。
その「単線的」なものの見方に、学問からの演繹モデル志向の浸透を感じるのだ。
色々な単語の頭や尾にくっつきがちな言葉ほど、幾何学思考との相性は悪いはずだ。
だからこそ「非線形的足し算」で閾値を探る思考を適用すべきでないかと思う。
例外を排除したり例外を加味したモデルを再構築するのではなく、例外を前提とし例外を着地点のずれの要因として受容するという思考法もあっていいのではなかろうか。
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