「深海魚族」と「文芸エム」
甲南高校文学部、そう口にすると関西では大概勘違いされ、戸惑いを与える。関西には「ええとこの子」が集まる「金持ち大学」甲南大学があるからだ。甲南高校と言えばその高等部だ。しかし文学部であれば、甲南大学だろうと話は混乱する。おまけに私がもとより「裕福さ」とは縁遠い。「お前の口から甲南大学の話が出るなんて」と驚かれるのが落ちだ。だから、私は慌てて付け加える。鹿児島に甲南という公立の高校があり、そこでは文芸部のことを文学部と呼ぶのだと。
先日8年ぶりに甲南高校の門をくぐった。首から見学者プレートを下げ、校舎を見てまわった。土曜日であったが、生憎二階三階は生徒が自主的に登校しているからと、一階だけしか見ることは叶わなかった。
廊下天井のパイプも無ければ、進駐軍が修繕したという通風孔も跡形ない。そもそも土足ではなく、上履きに履き替えねばならなかった。これでは窓から校舎の外に飛び出ることもできないな。裏の自転車置き場を見ながらそう思った。汚れや擦り傷ひとつなくぴかぴかの校舎だ。ともかくノーベル賞受賞者を輩出したとずいぶん自慢気な様子である。もう私が心深くに刻んでいる甲南高校の記憶と重ね合わせるのもむずかしい。そして一階階段から踊り場を見上げた。そこに「文学部」室があるはずだったが、その表示はなかった。廃部となったのだろうか。寂しく思ったが、校舎のはずれに部員募集の文学部ポスターを見つけた。部室は移動していたのだ。手書きのポスターには「深海魚族」を発行すると予告が記されてあった。甲南高校文学部の部誌である。まだ発行されているのだ。
「深海に生きる魚族のように、自らが燃えなければ何処にも光はない」
これは甲南高校文学部誌「深海魚族」の巻頭に必ず書かれていた、その誌名の所以を記す言葉だ。今はネットで検索すれば容易に明らかとなるが、私が在学当時は部員全員はるかな先輩が創作した言葉と思い込んでいた。その作者明石海人を知ったのは、卒業して後三十年以上も経ってからだ。
或る出版社から、刑務所の受刑者のために禅の言葉を解説して紹介するテキスト執筆の依頼があった。その際に、もらった資料に「自燈明」という禅語があった。釈迦が入滅するとき、釈迦という法灯を失いこの世は闇に沈むと悲嘆する弟子に向かい、これからは自分自身を明かりと灯せと釈迦は諭したというのだ。それが「自燈明」だ。私は「深海魚族」の言葉を思い出した。調べたところ、明石海人に行き当たったのだ。
「深海に生きる魚族のように・・・」
これは明石海人が死の直前に刊行した歌集「白描」の序文の一節である。その前にこうある。
「加わる笞の一つ一つに、嗚咽し慟哭しあるいは呻吟しながら、私は苦患の闇をかき捜って一縷の光を乾き求めた」
まさに血の涙で光を渇望した果てに、その境涯にたどりついたのである。
彼が苦患と呼ぶのは、当時癩病と言われ苛烈な差別と虐待を強いられたハンセン病である。身体の一部に奇異な変容をもたらすこともあるために、それは不吉な業病とされ伝染を恐れる民衆から忌避された。迷信としてではない。医学界が先導し行政が進んで「癩病狩り」と言われる組織的な患者の発見連行隔離が行われていたのである。浮浪に身を落とす者も多く、トラックの荷台に押し込められ、各地の施設に収容された。病である。なにがしか本人が責められる理由など微塵もない。それでも家族との縁を断ち切られ、子を持つことさえ許されなかったという。
甲南高校文学部が大事にしてきた言葉の背景にはそのように過酷すぎる痛ましさと愚劣な加担への戦慄があったのだ。それを部誌のタイトルに定めたのはその当時の高校生だ。その経緯は不明だが、なんという文学精神への造詣だろうと畏敬すら覚える。それはまさに文学のいのちにかかわる深淵だからだ。
鹿児島を訪れる少し前、私は急いで北陸を訪ねていた。それは三十年ぶりに友人と会うためだ。私が創刊を計画していた文芸誌に、寄稿を依頼していたのだ。それは掛け値なしの愉快な再会であったが、思えば奇妙な邂逅だ。高校を卒業以来、彼とは一度三十歳の折に会ったきりまったく交通はなかった。ひょんなことで彼の勤務先を知り、ダメもとで会社に手紙を出したのが今年の春だ。だからそれぞれに起伏の激しく長い人生の時間をすでに送ってきていた。人間は変容するものだ。それなのに、気まずい出会いとなることを私は一ミリも心配しなかった。実際、まるで長く会わなかった恋人と出会ったように話はいつまでも尽きなかったのだ。
思い出話だけではない。互いにはるか遠いところで数十年を過ごしたが、生業とは別にやむにやまれず新しい思想や文学、演劇や映画にずっと関心を失わなかったことが直に感ぜられ、興奮した。これはひとつの奇跡だ。
私も彼も甲南高校文学部の列記とした一員であったが、実は正式な入部届など提出していない。私は二年生で留年したため、三年時は四年生であったが、もう一人四年生と五年生までが頻繁に部に出入りしていた。そういう杜撰さがまかり通る時代だったのだ。文学部員を中心に文化祭で劇を上演したが、その台本を私が書き、彼が演出した。題名は「盲いた良識」。エンディングはクリムゾンの「エピタフ」を大音響で流した。彼も私も「深海魚族」に作品を掲載し、私は表紙までデザインした。
そして今回私が計画していた文芸誌「文芸エム」がいよいよ創刊となる。出版社やそれらが主催する文学賞の内情はその界隈にいれば周知のことだ。だから自立して作家自身が文学発表の場を確保維持することは長く課題とされてきた。そうした作家たちに見出され評価いただいた私にはまた別な悲願がある。私は裁判所、刑務所、弁護士事務所にも勤務し、結果的に罪と刑罰の周辺を生きてきた。同時に、精神障碍者、就労困難者の支援もしてきた。そして今切願するのは、「文学を彼らに」ということだ。今回私は「生きる武器としての文学」という表題で創刊の辞を書いた。まさにそうなのだ。国語教師の作文指導や暇な年寄りの身辺雑記とは明確に一線を引いた、文学のいのちを繚乱させたいのである。
教師に追われ体育館の二階から飛び降りたことがある。夏休み一人フェリーで桜島に渡り、溶岩の陰でシンナーを吸っていた日もあった。それでも生き延びることができたのは、安吾や金子、友部やDylanがいたからだ。そしてただひたすらに書き続けていたからだ。渦中にあって当時は気づかなかったが、やはり私もまた私の深海にいたのである。そして自分を燃やし明かりとするため、握りしめた文学を手放すことなどできようはずがなかったのだ。
だから、創刊する「文芸エム」は「深海魚族」でもある。いや、現実の「深海魚族」はこの時代に立脚した形で今の十代が紡いでいるだろう。1974年の「深海魚族」が深海の底から、第一形態のまま浮上した奇怪生物が2020年「文芸エム」ということになる。
西駅は中央駅となり、石橋は美しい橋に取って代わられていた。専売公社は市民病院となり、動物園は跡形もない。無理もない。半世紀近くが経っているのだ。それでも「深海魚族」が今年も発行されるなら、それこそがあり得ない奇跡だ。ならば私は「文芸エム」で書き続けよう。
土砂降りの雨を逃れ、駆け込んだ天文館のダイソーで買ったサンダルで、今日も炎天下の琵琶湖岸を歩いている。窓に蔦が貼りついていた、あの甲南高校文学部室を思い出せば、まだまだ行けると思うのだ。行かねばと思うのだ。自ら燃やさなければ、どこにも光はないと、それは今でも決して変わらないのだから。
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- 市井の作家・生活者による投稿総合文芸誌 -
「文芸エム」特別創刊号 2020/8/31
|創刊辞| 生きる武器としての文学(原 浩一郎)
|随筆抄| 母(橋元あおい)
|評 論| 覚悟という定点ー坂口安吾、金子光晴そして観阿弥ー(原 浩一郎)
|特別寄稿| 流されず考える力を 今なぜ同人雑誌か(五十嵐 勉 作家、全国同人雑誌振興会代表、『文芸思潮』編集長)
|映画評| 今こそ映画「生きるべきか、死ぬべきか」を発見しよう(月川奈緒)
|小 説| いびつな恋(瞳 元中)
|随 想| 生々流転~生きるということ(伊東久仁雄)
|随 筆| 南部風鈴と私(橋元あおい)
|臨 床| オープンダイアローグから反想法へ(1)(阿迦井光子)
|小 説| 此岸(1)( 原 浩一郎)
|評 論| カミュ「誤解」、サルトル「出口なし」、その源と将来(林 娼霊)
編 集 文芸エム編集部
Facebook|@bungeiemu
編集責任 原 浩一郎
BLOG | http://hara-koichiro.com
Facebook|@haratobungeishicho
発 行 HAO出版局
A5判 212頁 ¥1,000(税抜)
ISBN978-4-9911513-0-9 C9402 ¥1000E
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