最近の記事

「深海魚族」と「文芸エム」

甲南高校文学部、そう口にすると関西では大概勘違いされ、戸惑いを与える。関西には「ええとこの子」が集まる「金持ち大学」甲南大学があるからだ。甲南高校と言えばその高等部だ。しかし文学部であれば、甲南大学だろうと話は混乱する。おまけに私がもとより「裕福さ」とは縁遠い。「お前の口から甲南大学の話が出るなんて」と驚かれるのが落ちだ。だから、私は慌てて付け加える。鹿児島に甲南という公立の高校があり、そこでは文芸部のことを文学部と呼ぶのだと。 先日8年ぶりに甲南高校の門をくぐった。首から

    • ドストエフスキー「白痴」 ~ 光闇の苛烈なコントラスト

       読み終えた。  はじめに岩波文庫「白痴」上巻を開いたのは、いよいよコロナ禍非常事態が宣言され、学校やほとんどの店舗、会社がシャッターを下ろし、まもなく町中からティッシュやマスクが消える頃だ。ひと頃はほぼ毎日、私は「白痴」を読みながら川沿いの遊歩道を歩いた。たいがいは地元のショッピングモールを目当てに片道の三十分、そして近くの湖岸公園ベンチでまた十分二十分、それから三十分の帰り道。その間中、ずっとドストエフスキーワールドに浸りっきりだ。存分に味わい、酩酊せられるようにどっぷり

      • 萩原恭次郎と「日比谷」

        次回の文学フリマの開催地は前橋である。実ははじめ出店参加するつもりはなかった。私の住む関西からかなり遠いという漠然とした印象があり、なじみを感じなかったのが理由のひとつだ。しかし文芸思潮の五十嵐編集長から前橋でもコラボ出店しましょうと誘われ、それならと応諾したのだ。そうしたら五十嵐さんのメール「では、群馬でお会いしましょう」。え?と思った。正直なところ。実は前橋が群馬県だとはピンときてはいなかったのだ。 前橋に住む人には不愉快かもしれないが、私だって似た経験ならたくさんある。

        • フェリーニ「道」と「よだかの星」

          フェリーニの「道」を見た。何回目だろう。それでも見るたび新しく映りまた深く味わえるというのはつくづく大した作品だ。 今回気がついたのはこの作品もまた何が正しく、何が間違っているか、何が良いことであり、何が悪いことなのか、示してはいないということだ。つまり教化的でも啓蒙的でもない。その匂いがしない。 憐れで善良なジェルソミーナと許しがたい非道のザンパノ、そう言って間違いではないのだが、それは観た者の理解の仕方でしかない。作品はただそれだけを伝えているわけでないように思える。ザン

          シェイクスピア「リア王」

          リア王の王権譲渡をめぐる約ひと月の騒動の間に関係者のうちほとんどが非業の死を遂げ、生き残るのはほんのわずかだ。この凄まじい急転直下の崩壊はどういうことか。 冒頭リア王は、旺盛な我が権力を生前に譲渡するため国土の分割を自身への賛美の度合いで決めようとする。これが崩壊への幕開けとなるのだが、臣民を預かる王とは思えない愚かしい戯事である。おそらく王は、権力は盤石のうえ娘たちの婚姻も進み、栄華の絶頂にあったのではないか。まさしく慢心である。長女と次女が口先だけの美辞麗句を並べ立て王へ

          シェイクスピア「リア王」

          ソポクレス「アンティゴネー」

          どうしても気になり、ソポクレス自身の「アンティゴネー」の戯曲台本を読んでみたくなった。長く借りていた本を抱え県立図書館へ向かったが、長期延滞の小言をもらうだけで図書を借りることはできなかった。やむなく、BookOffまで出かけ、呉茂一訳の岩波文庫を入手した次第。 展開がスピーディで凝縮されている。登場人物はわずかだ。先に読んだサマリーも呉茂一によるものだったので、すんなりとそしてしっかりと読み進めることができた。幕場の転換はないが、コロスという合唱隊が時間系を区切る。詩の斉唱

          ソポクレス「アンティゴネー」

          ソポクレス「オイディプス三部作」

          狭義の三部作とは言えないらしいが、ギリシャ神話のオイディプス(エディプス)を題材としたギリシャ三大悲劇詩人ソポクレスによる戯曲三作品「オイディプス」「コローノスのオイディプス」そして「アンティゴネー」である。 よく知られるオイディプス王自身の父殺害と母姦淫の悲劇は「オイディプス」に描かれる。自ら目を潰し盲目となって町を去ってそののち、老いて娘とともに故国近くの丘を訪れ昇天するまでを描いた「コローノスのオイディプス」、そして残された亡き兄への敬慕を貫いた長女アンティゴネーと彼女

          ソポクレス「オイディプス三部作」